A black hen lays white eggs.



 個性事故、というものは被害の大小に関わらずありふれた日常の中でごくごく普通に起こり得るものだ。発現したばかりの個性を制御できずに暴発させてしまった幼児であったり、あるいはなにかの弾みで個性を暴走させてしまった一般人であったり、はたまた確信犯的に街中で個性を発動させた敵であったりとその要因はさまざまだけれども、毎日とは言わないもののそれなりの頻度で個性事故というものは各所至るところで発生している。となれば当然、所謂ご都合展開と言われるような個性事故も発生し得るわけで。つまりはそれに巻き込まれる可能性だって決してゼロではないわけで。

「……まじかよ」

 思わず煩わしさを隠しもせず面倒くさいという感情がふんだんに含まれた声が出てしまった。
 俺の眼の前には齢五歳程の子どもが立っている。それもただの子どもではない、麦藁色の髪をオールバックにして赤い翼を携えたこいつは他でもない、紛うことなきホークス本人だ。
 仕事中に外線で連絡が入った時点で、なにやら嫌な予感はしていた。そもそも警察相手に、しかも警視庁宛てに名指しで外線なんてなかなか入るものではないのだからもし連絡が入ったとしたらそれはほぼ身内からのものである。相手はホークスの事務所に勤務するサイドキックからで、聞いた話によるとどうやら街中のパトロール中に子どもの個性の暴発に巻き込まれたらしかった。ご両親からはすぐさま謝罪をされたそうだけれども個性の解除は任意ではないらしく、元の姿に戻るのは時間が掛かるようだ。この姿の状態では仕事も儘ならないし、そもそも普段が働き過ぎなのだから二日三日休んだところで支障はないだろうと暫く非番扱いにしたはいいものの、中身も外見同様に後退しているからそのまま帰宅させるわけにもいかず、要するに元に戻るまで預かって欲しい、という話だった。事情は理解したけれども、そもそもそれでどうして俺に連絡が来たかと問えば、ホークスの私用携帯端末に登録されている緊急連絡先が俺だったかららしい。なんで俺にしてんだよ。

「おまえも随分めんどくせえことに巻き込まれたな……」
「……お兄しゃん、誰?」

 普段よりもずっとずっと低い位置にある頭を見下ろして呟いてみれば、誰と問われてはっとする。そうだ、こいつ今中身も退行して五歳児なんだった。ぐっとしゃがみ込んで目線を同じ高さにするようにして目を合わせると、くるりとした四白眼の瞳がじっと俺の顔を見つめている。その瞳の奥に浮かんでいるのは、警戒心と少しの好奇心。警戒心をできるだけ解けるように、平素あまり使わない表情筋を総動員してどうにかへらりと笑うように目元と口元を緩めると、大人のときよりも幾分かやわらかい髪をわしわしとかき混ぜる。無意識に相手の動作を観察してしまうのはもはや悪癖と言ってもいいのだけれども、頭に手を伸ばしたとき、俺の手を避けるように僅かに身を引く動きをしたことには気づきたくなかった。ずしりと心臓の底に鉛が落ちるような感覚。こいつからしてみれば初めて会ったであろう大人に馴れなれしく話しかけられば警戒して然るべきかもしれない、それでもこんな年端もいかない段階から他人への切諌を顕にしている姿に悲しさを覚えてしまう。本来の子ども時代に、自分より大きな相手を無条件に信頼できるような環境下で育たなかったのであろうことは明白だった。だからせめて、俺といるときくらいは安心しきっていてもなんら問題がないくらいには思っていて欲しい。

「俺な、でいい」
「……しゃん?」
「ン゛ッ」

 思わず喉の奥から変な声が出た。方言なのか舌足らずなせいのか、幼児から拙い発声で名前を呼ばれるとなにか、腹の底というか胸の奥からこみ上げてくるものがある。平素俺には一切その気はないのだけれども、今ならペドフィリアの気持ちも少し理解できるかもしれない。いや違う、一体なにに対して弁明しようとしているのかはわからないけど違う、落ち着け、俺に小児性愛趣味はない。訝しげに俺を見る目に耐えかねて、んん、と誤魔化すようにひとつ咳払いをする。

「……あー、なんだ、まあ、とりあえずうち来るか?」
「知らんひとについてったらいかんのは常識ばい」

 可愛げがなさすぎる。

 結局のところ、どうせ俺以外に頼れる人物はいないのだから悪いけど諦めてくれと言い含めて部屋に連れ帰った。1Kの狭いワンルームに俺とちいさなホークスのふたり。あんま広い家じゃなくて悪いな、と呟くと構わないと言いたげに黙りこくったまま首を振った。確かにまあ、いつもの大人ふたりでぎゅうぎゅうと収まっているそれに比べれば幾分か余裕はある。ちなみに幼児化した折に服は事務所のサイドキックが準備してくれていて、念の為と三日分の子供服を預かっていた。未婚で一人暮らしの成人男性の家に子供服なんてあるわけがないと察せられていたのだろうか、なんにせよ正直ありがたい。
 どこか緊張している様子のホークスをリビングの座椅子に座らせて、冷蔵庫の扉をばかりと開けて逃げ出す冷気を一身に浴びながら扉の奥を覗けば、最後の買い出しが一昨日だったわりに食材の備蓄は問題なさそうだった。子どもの食欲を舐めているわけではないのだけれども年齢を鑑みたところ成長期の手前であろうし、恐らくこれなら買い足しに行かなくても三日間くらいは保つのではないだろうか。

「なあ、腹減ってっか?」
「……あんまり」

 冷蔵庫の扉を閉めてリビングに向かって声を張る。応答が返された途端、ぐう、と腹の虫が鳴く音が耳に届いた。未だ解けない警戒からかはたまた緊張からか、慣れない見栄を張ったというのに空腹を露呈してしまった羞恥によってほんのり頬を赤らめる姿に、なんだかひどく微笑ましい気持ちになって、ちょっと待ってろなとだけ言い放って冷蔵庫から卵を四個取り出した。

「ほら」
「おわ、」

 切ったり炒めたり焼いたりを施しておよそ三十分。楕円のオーバルプレートに盛りつけたオムライスと、ヤマザキのパン祭りでもらった丸ボウルに注いだ野菜スープをどんと卓袱台に置くと、ホークスの口から僅かに感嘆の声が漏れ出る。
 俺がまだ小学生の頃、母さんが作ってくれるオムライスが大好きだった。ケチャップにはほんの少しウスターソースを混ぜて。みじん切りにした玉ねぎとピーマンの他に、今でこそ平気ではあるけれども当時鶏肉が食べられなかった俺のために、鶏腿肉の代わりに油切りして絞ったシーチキンを混ぜたケチャップライス。薄焼き卵でくるりと包むようなそれではなく程よい半熟卵を上に被せるだけの簡素なものだったけれども、それがより家庭の味というものを引き出していたのだろう。両親が死んで一人暮らしをするようになって、出来合いを買うより料理ができたほうが経済的にも良いということがわかってからは、オレンジページやらレシピ本やらを買ってきていろんな料理を勉強した。それでも一番練習したのはたぶん、母さん直伝のオムライスだったと思う。それを今までこいつに振る舞ってやったことはなかったけれども。

「……いただきます」
「ん」

 恐る恐るといった様子でオムライスをスプーンで掬って、口に運ぶ様子を眺める。口に含んで咀嚼するとみるみるうちに明るくなっていく表情に、ほうと内心安堵の息を吐いた。母親直伝とは言ったもののかなり男メシ感が拭えない出来なものだから心配だったのだけれども、どうやら杞憂に終わったらしい。ぱっとこちらに顔を向けて「うまかばい」と目を輝かせるのを認めて、そうか、と返しながら頭を撫でてやるとがつがつとかっ込むように匙を動かすものだから、「逃げないからゆっくり食え」と言いつつ俺もみずからの分のオムライスを掬って口に運んだ。
 正直なところ、料理をするという行為は家事の中でも飛び抜けて苦手な部類に入る。作ったものが不味いというわけでは決してないのだけれども、ただ純粋に、ずっと苦手意識が抜けなかったのだ。仕事を初めてからは忙しさにかまけて料理をする回数はぐっと減って、週に一度あればまだ良い方で、たまの休日に気が向いても、わざわざ凝ったものを作ろうとは思えなかった。けれどもそれは、一緒に食べてくれる誰かがいなかったからなのだろうということはどこか心の奥底でわかっていた。

「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さんでした」

 ぱちんと律儀に手を合わせる姿に目元を緩ませる。軽く頭を撫で回して、二人分の食器をまとめてシンクに運ぶとそのまま台所の蛇口を捻りざっと汚れを水で流して、洗剤を染み込ませたスポンジで食器を洗いながらふと思う。そういえば、誰かと一緒に食べるご飯がこんなにも美味しいものなのだと、教えてくれたのはホークスだった。気を許すとか許さないとか、そういう意識すらもないままに思い出のひとつひとつを共有して積み上げているのだと考えると、思わず口の端から笑いの入り混じった吐息が漏れ出る。なんだかなあ、とちいさく呟くと、ぼす、と背中に僅かな衝撃。首だけを捻って見ると、先程まで俺の周りをうろちょろと飛び回っていたホークスが腰のあたりにコアラのごとくべったりとしがみついて服に顔を埋めている。それ、呼吸できてるんか。

「どうした」
「……んん、」

 あ、これ眠いやつだわ。ふと壁掛け時計に目をやり、短針が十を指していることに気付いておおよその事態を察した。ぐりぐりと腰に押し付けた頭を擦るように左右に振って唸るような声を出すその身体は、互いの衣類越しにでもじんわりと温かさが伝わってくる。子ども体温というやつだろうか、元々基礎体温は高めなのだろうけれども眠気に苛まれて殊更に上昇しているようだ。自然の湯たんぽ、という謎の単語が脳裏を過る。
 ざあざあと蛇口から流れる水で食器についた泡を落として水切り籠に置いて、ワークトップ下にある戸棚の取っ手に引っ掛けていたタオルで手を拭くと、腰にへばりついたホークスの脇に手を差し入れてよいせと両手で持ち上げた。ぶらりと足を揺らして持ち上がる身体の重みを両手に受けて、五歳児というのは往々にしてこんなにも軽いものなんだろうかと考える。大人の姿のときから筋肉は付いているものの比較的痩躯ではあったし飛行性能を持つ個性の影響もあるのかもしれないけれども、この状態だと恐らく十五キロ前後じゃなかろうか。

「眠いんだろ?布団使っていいから寝とけよ」
「……いやや」

 嫌ってなんだ。どう見ても瞼は重そうだし今にも寝落ちてしまいそうだというのに、ホークスは襲い来る眠気に抗うように掌で目元を擦りながらふるふると頭を振っていて、懐かれていると言えば聞こえは良いけれども予想外の聞き分けの悪さに思わず呆れてしまう。普段からなにを考えているかよくわからない節は散見されるなと常々思っていたけれども、子どもになっている今現在、その思考は殊更によくわからない。さてどうしたものか、とひっそり考えていると、ホークスの紅葉のようなちいさな手が俺の部屋着の袖をぎゅうと握り締めていることに気づく。

「……よしわかった、俺も一緒に寝てやるから」

 一体なにがわかったなのか言い出しっぺの俺にもよくわからないけれども、とりあえずこのままこいつをひとりで寝かしつけるのはほぼ不可能であるということだけは理解できた。風呂は明日の朝にでも入ればいいだろう、どうせお互い非番なのだ。両手から片手に持ち替えて腕に抱くようにして、ずるずると片手で布団を引っ張り出してリビングに敷くと、ふたりでごろりと寝転がる。握り締められていた袖をなんとか離させると結構な皺が寄って生地も若干伸びていた。子どものくせに握力強すぎだろ。胸元に擦り寄るようにして身を詰めぴったりと隙間を埋めてくる身体を抱き寄せて、翼に触れないよう中背筋あたりを一定のリズムで軽く叩いていると、先程まで懸命に遠ざけようとしていた睡魔が舞い戻ってきたようで、ゆっくりと瞼を瞬かせている。

「いなくなったりしねえから、大丈夫だ」

 ふくふくとした頬を指先で撫でながらそう言うと、漸く安心感を手に入れたのか今度は眠気に抗うことなくあっさりと身を委ねたようだった。目付きが良いとは決して言えない四白眼の瞳が閉じられた顔のあどけなさにふと息を吐いて、晒された健やかな額にそっと唇を落とす。かすかな呼吸を規則的に繰り返す姿をじっと眺めていると俺にも眠気が襲ってきて、守るように、あるいは庇うように抱き締めたちいさなからだの温かさをじんわりと腕に感じながら俺もそっと目を閉じた。


「――えっ、どういう状況ですかこれ」

 素っ頓狂なホークスの声で意識が浮上した。腕にずしりと感じる重さは寝る前までにあった子どもの体重ではない。ぐぐっと瞼を持ち上げると目の前にいたのはあのちいさな姿ではなく見慣れた成人男性のそれだった。もう二、三日はあのままだと思っていたのだけれども、意外と周囲の推測よりも戻るのが速かったようだ。さすが速すぎる男か、なんて。

「……はよ」
「お、はようございます、いや、えっ、さんこれどういう」
「るせえな、とりあえずおまえ今日非番、だから、あとで事務所に連絡しとけよ」

 欠伸をしても治まらない眠気にいっそもう少し寝てしまおうと思い至って、えっ、あれ、今日も俺仕事じゃ、と混乱している様子のホークスに再度うるさい、とだけ返してぐっとおおきな身体を引き寄せる。背中に腕を回して肩口に額を押し付けると僅かにからだが強張った。平素同じ布団で眠ることがあっても大体は相手に背中を向けて眠る癖のある俺が珍しく向かい合うどころか抱き合うようにして再びの眠りに就こうとしているものだから、ひどく動揺と狼狽を滲ませた声が聞こえるような気もするけれども、既に意識は半分夢の中だ。結局暴発の原因も解除条件もわからないままなんだよなあ、と思いつつもそれは俺の管轄じゃないからまあ良いだろう。幼児退行していたこときの記憶は残っていないようだけれども、俺から言わせれば好都合だ。

 次に起きたときにはなにをしよう。まず風呂に入って、それから、どうせ覚えてはいないだろうから、もう一度こいつにオムライスでも作ってやろうか。誰かと一緒に食べるご飯がどれほど美味しいものかということを、今度は俺がこいつに教えてやりたいと思った。霞のように漂い、ゆらゆらと頼りなく揺れていたそれが今漸く明確な形を成して満ち始めたことで、じわりと熱を帯びて胸に広がるあたたかさに、頬が自然と緩んでしまう。
 この感情も、あるいはひとつの愛なのかもしれない。