公休日というものはカレンダーの上にあるだけであればなにをしようだとかどこに行こうだとかあれこれ考えるものだけれども、実際にいざ目の前に現れてしまうと睡眠が優先順位の圧倒的一位に座り込む。起きたら短針が九を指し、長針は十二にいた。それでも俺にしては充分に早起きなほうだ。
昨晩の仕事はてっぺんこそ越えなかったけれどもそこそこ遅く、事務所に戻ってヒロコスやらゴーグルやらヘッドフォンやらの装備を解いて、家の玄関を潜った頃には既に時計の針は重なっていて、寝ていると思っていた同居人は確かに寝てはいたけれどもソファに倒れ込んでいて、どうやら極限まで待っていてくれたらしかった。それだけで蓄積した疲れがすべて吹っ飛んでしまいそうなほどにへらへらと頬が緩んでしまう。
「ただいま」
白い頬に指を滑らせて小さく呟いても返ってくるのはかすかでちいさな寝息だけ。けれどもそれだけで幸せは絶頂の気分。ささっとシャワーを浴びてからビールと共に用意されていた晩御飯を食べて、食器を片付けようとしたところでのそのそと起き上がった鳩子さんは俺を見て驚いたように僅かに目を丸くした。
「……びっくりした」
「顔と台詞は合ってますけど、台詞と声が合ってませんよ」
「ん?んー、うん」
「寝ぼけてます?」
「……ぼちぼち」
「かなり、でしょ」
未だ眠気を引きずっているらしくソファにぐでりと溶けたスライムのように凭れる鳩子さんの目は蕩けたようにとろんとしていて、鳩子さんにそんなつもりは微塵もないのだろうけれどもどこか理性を試されている気がする。けれども、どうも俺は鳩子さんに対して無条件に愛を大量生産してしまうようで、理性というのは実に力を込めればすぐにぱりんと砕け散ってしまう飴細工のような脆さを携えている。歩み寄ってそのまま呼吸を咎めるように噛みつくようなキスをすれば、すこし息を乱した鳩子さんは「酒臭え」と不満げにきゅっと眉間に皺を寄せた。やってビール飲んだけん。
「酔っ払い、やだ」
寝起きの鳩子さんは平素のきりりとした様子からは相反するように、どうにも振る舞いがどこか子供っぽい。けれども翌日が休みという高揚感とアルコールの力で今の俺にとってそれは前菜のようなもので、そうとなればメインディッシュを頂かないわけにはいかない。据え膳食わぬはなんとやら、だ。もう一度、先程よりもすこしだけ強引なキスを贈ればやや遠慮がちに背中へ回された腕に思わず上がる口角と、にやにやとした笑みが抑えられなかった。
結局、あのあとソファの上と、ベッドの上とで営んで合計何回かの記憶はすこし朧気だ。俺もまだまだ若かねえ、なんて。隣で未だすいよすいよと眠り続けている鳩子さんの右手薬指に嵌められた銀色のリングは、確か同棲を始めて一年目の鳩子さんの誕生日に贈ったものだ。鳩子さんに誂えるために選んだそれにはちいさなアメジストが彩られていて、鳩子さんの産まれ月の誕生石であるそれは鳩子さんの瞳によく似た鮮やかな紫色をしている。普段はチェーンに通して首から下げているから実際に身につけていることは滅多にないのだけれども、昨日はどういう経緯でそういう気分になったのか俺が帰宅したときには指に嵌っていて、それも気分を高揚させるひとつの要因だった。
「こーゆーのがたまらんとよ」
給料三ヶ月分なんて全然しない安物だけれども、大切にしてくれているのは状態を見ればすぐわかる。本人にそれを言えばきっと「別におまえのためじゃない」とかなんとか、ポーズのような不機嫌を表情に張り付けて可愛くないことを言うのだろうけれども、そこも含めて俺は愛してしまっているわけで。互いに休みが重ならなければ一緒に出掛けることも、時期によっては家で顔を合わせることも難しいけれども、だからこそ、この瞬間がたまらなく愛おしい。そっと鳩子さんの右手をすくい取って五本の指すべてに口づけを落とす。そうすれば擽ったかったのかすこし身動ぎをしたもののまだ意識は浮上してこないらしく、規則正しく静かな呼吸を再開させる。ああ、このひとのことが好きだ。こんな何気ないありふれた呼吸のひとつひとつにも心の奥底に沈殿した愛しさが燃える。
本当は映画に行こうかだとか買い物に行こうかだとか色々考えていたけれども、こんな風に一日ゆっくりとベッドの上というのも悪くないかもしれない。そっと唇に触れるだけのキスをして、俺は再度身体をベッドへ沈めた。