一日が25時間あったら良いのに。そうしたら一時間コーヒーでも飲んでまったりできるのに。いつだったかそんなテレビCMが放送されていたような気がするけれども、一日は24時間くらいがちょうどいい。一時間増えたところで既に充足している睡眠時間が一時間増えて余計に惰眠を貪ってしまう気がする。なんて怠惰だろうかと呆れるひとはいるだろうけれども、たかが一時間にそれほどの価値は見出せない。けれどもその一時間をぎゅっと濃縮させて年末に15日程日数が増えて、365日と原則定められている一年が380日になるのならばそれはとても魅力的だ。彼と愛し合うことを許される上限が増えるだなんて、なんと素晴らしいことだろうか。
公休日というものはカレンダーの上にあるだけであればなにをしようだとかどこに行こうだとかあれこれ考えるものだけれども、実際にいざ目の前に現れてしまうと睡眠が優先順位の圧倒的一位に座り込む。起きたら短針が九を指し、長針は十二にいた。それでも俺にしては充分に早起きなほうだ。
昨晩の仕事はてっぺんこそ越えなかったけれどもそこそこ遅く、事務所に戻ってヒロコスやらゴーグルやらヘッドフォンやらの装備を解いて、家の玄関を潜った頃には既に時計の針は重なっていて、寝ていると思っていた同居人は確かに寝てはいたけれどもソファに倒れ込んでいて、どうやら極限まで待っていてくれたらしかった。それだけで蓄積した疲れがすべて吹っ飛んでしまいそうなほどにへらへらと頬が緩んでしまう。
「ただいま」
白い頬に指を滑らせて小さく呟いても返ってくるのはかすかでちいさな寝息だけ。けれどもそれだけで幸せは絶頂の気分。ささっとシャワーを浴びてからビールと共に用意されていた晩御飯を食べて、食器を片付けようとしたところでのそのそと起き上がったさんは俺を見て驚いたように僅かに目を丸くした。
「……びっくりした」
「顔と台詞は合ってますけど、台詞と声が合ってませんよ」
「ん?んー、うん」
「寝ぼけてます?」
「……ぼちぼち」
「かなり、でしょ」
未だ眠気を引きずっているらしくソファにぐでりと溶けたスライムのように凭れるさんの目は蕩けたようにとろんとしていて、さんにそんなつもりは微塵もないのだろうけれどもどこか理性を試されている気がする。けれども、どうも俺はさんに対して無条件に愛を大量生産してしまうようで、理性というのは実に力を込めればすぐにぱりんと砕け散ってしまう飴細工のような脆さを携えている。歩み寄ってそのまま呼吸を咎めるように噛みつくようなキスをすれば、すこし息を乱したさんは「酒臭え」と不満げにきゅっと眉間に皺を寄せた。やってビール飲んだけん。
「酔っ払い、やだ」
寝起きのさんは平素のきりりとした様子からは相反するように、どうにも振る舞いがどこか子供っぽい。けれども翌日が休みという高揚感とアルコールの力で今の俺にとってそれは前菜のようなもので、そうとなればメインディッシュを頂かないわけにはいかない。据え膳食わぬはなんとやら、だ。もう一度、先程よりもすこしだけ強引なキスを贈ればやや遠慮がちに背中へ回された腕に思わず上がる口角と、にやにやとした笑みが抑えられなかった。
結局、あのあとソファの上と、ベッドの上とで営んで合計何回かの記憶はすこし朧気だ。俺もまだまだ若かねえ、なんて。隣で未だすいよすいよと眠り続けているさんの右手薬指に嵌められた銀色のリングは、確か同棲を始めて一年目のさんの誕生日に贈ったものだ。さんに誂えるために選んだそれにはちいさなアメジストが彩られていて、さんの産まれ月の誕生石であるそれはさんの瞳によく似た鮮やかな紫色をしている。普段はチェーンに通して首から下げているから実際に身につけていることは滅多にないのだけれども、昨日はどういう経緯でそういう気分になったのか俺が帰宅したときには指に嵌っていて、それも気分を高揚させるひとつの要因だった。
特にこれといった契機があったわけではないし、さんからそれなりのアプローチがあったわけでもない。先週会った友人にもそれならなぜ結婚をするのかとさんざん問い質されたけれども彼を納得させる答えを明示することは終ぞできなかった。さんを想うぶんの見返りがあればいいと思っていたわけでもないし、ましてや法的な肩書を得てさんの自由を制限したいという思いもない。ひとりきりの生活だからこそ有していられる自由をもう少し満喫してもいいではないかと友人は言った。結婚は焦ってするものではないと誰もが言った。確かにひとりの生活は気楽だ。帰宅も就寝も起床も思い通りの時間にすればいいし、休日の予定も洗濯をする回数も掃除をするタイミングもなにもかも自分で決めてしまえばいい。けれどもさんと出会い、分かり合い、求め合い、そんな自由にはなんの価値もないと思い始めたのだった。
一年は365日だ。それは一年のうちにさんと愛し合うことを許された日数だ。少なくはないけれども、決して多いとも思えないその日々を少しでもさんと共有したかった。きらびやかなひかりもので気を引いて、曖昧な寄り添う理由に紙一枚で誓約を立てて、そんなことに一体なんの意味があるのかと問われれば答える用意はないけれども、ありとあらゆる方法でさんの心に触れるための手立てを探していた。これもその一端だ。
「こーゆーのがたまらんとよ」
給料三ヶ月分なんて全然しない安物だけれども、大切にしてくれているのは状態を見ればすぐわかる。本人にそれを言えばきっと「別におまえのためじゃない」とかなんとか、ポーズのような不機嫌を表情に張り付けて可愛くないことを言うのだろうけれども、そこも含めて俺は愛してしまっているわけで。互いに休みが重ならなければ一緒に出掛けることも、時期によっては家で顔を合わせることも難しいけれども、だからこそ、この瞬間がたまらなく愛おしい。そっとさんの右手をすくい取って五本の指すべてに口づけを落とす。そうすれば擽ったかったのかすこし身動ぎをしたもののまだ意識は浮上してこないらしく、規則正しく静かな呼吸を再開させる。ああ、このひとのことが好きだ。こんな何気ないありふれた呼吸のひとつひとつにも心の奥底に沈殿した愛しさが燃えるものだから、俺がさんに結婚を申し出ると決めたことをさんざん疑問視した友人に今更ながら返事がしたい。ああ、このひとのことが好きだと365日思いたいのだ。
365日、さんに宛てるラブレターを綴りたい。誰の目にも触れることのない心の奥底でひっそりと筆を走らせる。本当は映画に行こうかだとか買い物に行こうかだとか色々考えていたけれども、こんな風に一日ゆっくりとベッドの上というのも悪くないかもしれない。そっと唇に触れるだけのキスをして、俺は再度身体をベッドへ沈めた。