And the hawk swooped on her and killed her.



 ジワジワと僅かに外から聞こえる蝉の鳴き声と、タタタタ、タン、タタン、と無機質で不規則なキーボードのタイプ音だけが無言の部屋に響いている。
 厚田さんを筆頭に藤堂や倉島、清水らがこぞって出払ってがらんどうになっている刑事部捜査第一課のオフィスには、事件の報告書作成をするために今日は内勤である俺と、今度は一体なにをやらかしたというのか現場謹慎中となっている東海林だけが残されていた。俺と東海林の仲が悪いというわけでは決してないのだけれども、お互いに饒舌な方ではないからあまり世間話なんかもしたことがないし、これといった共通項もない。倉島なんかは以前に「なんか君たち似てるよね」だとかなんとか寝言は寝て言えといわんばかりの戯言を宣っていたけれども、正直こういう状況下、俺と東海林の間にはどこか気まずさのようなものが漂っていた。いや、もしかしたら気まずさを感じているのは俺だけかもしれない。
 暫くはお互い無言でパソコンに向き合っていたのだけれども、クーラーは設置されているはずなのになぜか稼動させていないという謎過ぎるオフィスの暑さに耐えかねて、スーツの上着を脱ぎネクタイを緩める。ワイシャツの上のボタンを二個外して、それから一度ぐっと手を組んで背伸びをしたあと、再びパソコンに向かい直そうとしたとき、俺の右隣にデスクを構えている東海林からじっとりとした生温い視線を感じたものだから思わず目を合わせてしまった。

「……なに」
「……さん、ペットかなんか飼ってんですか?」
「あ?なんで」
「首、歯形ついてます」

 どう控えめに見積もっても好意的とは決して言えないであろう返答が口をついて出てしまい、あっやべ、と一瞬後悔したのも束の間。なんだかいつものすかしたようなそれよりも冷ややかな目で、どこか呆れたような表情を携えた東海林がみずからの首筋を指でトントンと叩く。その位置と、歯形、という言葉を咀嚼して飲み込んで、そうして東海林の表情の意味を理解して、昨晩の記憶を一気に思い出して、ぶわあ、と一瞬で顔に熱が立ち上る。次いで、ざあっ、と血の気が引いた。掌で指された側の首をべちりと音が鳴るくらいに勢い良く覆い隠したけれども時すでに遅し。どっと物凄い勢いで背中から噴き出した冷や汗がワイシャツに滲む。動揺を露わにして金魚のように口を開閉するだけで弁明をすることも儘ならず、だらだらと冷や汗を流しながら赤くなったり青くなったりと忙しい俺の顔色を見ていろいろと察したのか、東海林は目を細めて溜息をついた。

「他人のアレコレに口出す気はないスけど、躾はちゃんとしたほうが良いと思いますよ」


 どごっ、と脚を叩きつけた壁がいまにも穴が空きそうな程に鈍く痛そうな音を立てた。今このときほど角部屋に住んでいてよかったと思ったことはない。これでもし両隣に部屋があったのならば確実に隣の入居者から苦情が来ていたことだろう。もしかしたらリアル壁ドンをされていたかもしれない。うわ、と壁に追い詰められていたホークスが大きな音に驚いたように僅かに肩を竦ませて、呼応するように大きな翼がふるりと震えた。

「……え、えーと、さん?流行りの脚ドンにしてはだいぶ強めの……てか顔怖いですよ、どうしたんですか」
「おまえはばかか、こんな見えることに痕つけよってからに」

 用法用量の間違った少女漫画版の壁ドンとは全く違うそれに慄いた様子のホークスを無視して、ぐいと部屋着の襟刳りを引っ張るとそこには肩口の頭半棘筋から頭板状筋にかけての間にくっきりと噛み痕が残っている。朝はネクタイを締めるときくらいにしか鏡を見ないものだからワイシャツを羽織るときにも気がつかなかったし、そもそも自分で確認することがあまり容易ではない位置だ。なによりシャツのボタンをすべて閉じてしまえばぎりぎり見えなくなる位置、きっと狙って付けたに違いない。未だ赤黒く鬱血の残るそれが、昨日の行為の最中に付けられたものであることは明白だった。
 個性の影響というよりはほぼ先天的なものであると思うのだけれども、視野がひとよりやや広い俺が正常位を嫌がるからと、背後から抱きかかえるような体勢ですることの多い行為の際にうなじやら肩口を弄ばれることは少なくない。うなじに限ってはそこが俺の弱いところ、俗に言う性感帯であることを知ったうえで、反応を楽しむために爪で軽く引っ掻いてみたりだとか歯を立ててみたりだとか舐めてみたりだとかいうことをしてくるのだから趣味が悪い。こういうことあんますんなよ。幾度となくそう告げたけれども、「反応してくれるさんがかわいくて、つい」なんて一切悪びれることもなくいけしゃあしゃあ平然と言ってのけるこいつは俺の言い分を一向に聞き入れようとしない。こいつの言い分を聞いてからというもの、無駄に喜ばせてしまわないようにと極力態度に露わさないよう心掛けているけれどもその努力も虚しく結果に反映することはない。押し寄せる快感の波に抗うことは容易ではないことをありありと思い知って、昨日もまた、思惑通りに肌を染めて声を上げて啼いてこいつを楽しませてしまった。

「あ、気付いちゃいました?」
「気付いちゃいました?じゃねえよばか、職場の同僚に指摘された方の身にもなれ」

 あの後、東海林は何事もなかったかのようにパソコンに向き直り仕事を再開させていたけれども、俺の方は正直仕事どころではなかった。こういった生々しい行為の証明を他者に露呈してしまったことも、それをよりにもよって東海林に指摘されてしまったことも、俺のペットあるいは恋人がこういった噛み癖のある性癖の持ち主であると解釈されてしまったであろうことも、こころのうちに忸怩たる思いが募る要因にしかならない。せめて報告書は今日中に仕上げてしまわないとと、どうにか気持ちを切り替えて提出完了まで漕ぎ着けたものの、無心で作業をしようと思っても着々と降り積もる羞恥とそれを吹き飛ばしてしまいそうな程に腹の底が煮えたぎるようにふつふつと湧き上がる憤怒を抑える気には到底ならなかった。

「あー……、すみません。でも、さん無防備なんで、一応首輪代わりでもつけておこうかなと」
「おまえ何年付き合ってっと思ってんだ、俺にはそういうの寄り付かないっつったべ」

 平素表面に貼り付けている無愛想のせいか、あるいはやや粗暴な言動のせいか、それともその両手か。原因は判然としないけれども俺には女性が寄ってこない。別にハーレム願望があるわけではないし、異性を相手にするのも無駄に愛想を振り撒くのもひどく疲れるだろうというのはたとえ経験がなくとも容易に想像がつくから一向に構わないどころかむしろ好都合とすら思っている。ひとりの男としてこんなことを言うのはひどく虚しくもあるけれども、改善する気は微塵もないしそもそも事実なのだから仕方がない。俺みたいなのを一般的には“枯れている”というのだろう、だから不安になる要素なんてただのひとつもないというのに。
 効果覿面っぽいですね、などと謝罪の言葉を口にしつつも全く微塵も反省している様子のないホークスに湧き上がる気持ちは怒りを通し越してむしろ呆れだ。遠慮なんてしそうにもないように見えるというのになにかと本心を隠してしまいがちなこいつの声に、あるいは瞳に潜んでいるそれを確かに捕えたような気になったこともあったけれども、硬く結んだ掌を開いてみればなぜかそれは見当たらない。だから俺はいつだってこうしてみっともなく翻弄されている。

さんの魅力をわからないひとが多すぎるんですよ、わかられても困りますけど」
「……俺みたいなの好きになる物好きはおまえだけだし、俺もおまえだけで手一杯だっつの」

 これは俺の本音だ。元々、刑事の仕事が忙しいものだから他人のために割ける時間などたかが知れているようなもので、たまにある休みの予定なんかを俺の都合に合わせてもらうことも相手の都合に合わせることも面倒になってしまって、“そういう相手”を作ることをこれまでずっと避けてきた。それはこいつに会ってもずっと変わらず、そこに不都合などなにも生じないと思っていた。

「まず、俺にしてほしいことがあんならちゃんと言え。了承できっかは別だけど、聞いてやるからちゃんと腹割って話せ」
「……はい、でも、俺、たぶん、どうしたってこれからもずっと不安だし、嫉妬すると思います。さんが好きだから、さんのこと疲れさせると思います。でも、別れたくはないです」

 この体勢のままでは疲れるなと気付いて壁につけていた足を漸く下ろすと、壁に背を付けたままだったホークスがぐっと近づいて俺のからだを抱きしめた。噛み痕のついた首筋に鼻先を擦り付けるようにして、ぼそぼそと吐き出される言葉をじっと聞き入れる。久しぶりに誤魔化しも我慢もない素直な言葉を聞いた気がする。これは疑うべくもない紛うことなきこいつの本心だ。不安になることも嫉妬をすることもお互い社会で働いている人間なのだから仕方のない部分はあるだろう。愛がないと嘆くわけでは決してない。大切な存在を喪失することへの恐怖を克服することは誰だって艱難辛苦で、相手が好きだからこそ不安で、好きな相手に近付く対象に嫉妬をしてしまうのだ。きちんとした付き合いというものを始めて以降、こういうとき、やはりひととひとの間に広がる距離に敷き詰められる感情の逐一を探る作業は面倒だと感じてしまうこともあるけれども、投げ出してしまいたいかと言えば決してそんなことはなく、愛とは多分に奥深い。

「俺はおまえのそういうとこ、かわいいと思うぞ」
「……ええー……?」
「まあ、これからも順風満帆ってわけにはいかんだろうけどさ。そういう壁を一緒に乗り越えていくのが恋人ってもんじゃねえの?少なくとも俺はそれを嫌だと思ってねえから、今おまえと付き合ってんだけど」

 俺を抱きしめる身体に腕を回して子どもをあやすように背中を軽く叩くと、はっとした表情でホークスが顔を上げた。今にも唇同士がぶつかってしまいそうな至近距離で視線がかち合う。ゆらゆらと瞳の奥で炎のように揺らめく心情を正確に掬い上げることは決して容易ではないけれども、ただ、今は言葉よりも雄弁に伝わる感情を読み取ることができたから。ふ、と自分でもありありと自覚してしまう程度には表情筋を緩めてホークスの頭をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。うわっちょっと、と焦ったように声を上げるのを聞いて、口の端から吐息が漏れて、声には絶対に出さないけれどもひっそりと思う。ああ、ほんとうに、かわいそうでかわいい奴だ。

 俺は、こいつが、ホークスが自分のことで声を上げて泣ける場所に俺がなりたいと思った。こいつが厭うあさましい感情も汚い感情もありとあらゆるものものを、そのからだにいつまでも留めていないですべて俺にぶちまけてくれて構わない。こいつのいろんな面を知りたいし、受け容れたいし、受け止められると信じている。それが当たり前だと思い切っている自分がいる。
 もしもこれを東海林なんかに話しでもしたら、狂っているとでも言われるだろうか。
 でも、愛なんていつだってどこか、狂気みたいなものだろう?