being very forgetful



 どうやら、やってしまったらしかった。

『なあ、それどういう意味?もっかい言ってみろよ』

 電話口の向こうでさんがあからさまに苛立った声を出す。彼の怒りは尤もで100パーセント俺が悪いのだろうけれども、正当性を思えば俺の言い分は100パーセント間違っているわけではないから謝りたくなんてなかった。

「あー、違いますって。さんが思ってるような意味じゃなくて」
『じゃあどういう意味だよ。説明しろって』
「……しんどい」
『は?』
「あっ、いや」
『もういい』

 ブツッ。不快な機械音が鼓膜を突いた。虚しく響く不通音を右耳で聞きながらきらきらと輝くアスファルトに盛大な溜息を叩きつける。どうやら口がすべりにすべって二度に渡ってさんをひどく怒らせてしまったようだった。
 正直、こういう扱いには慣れているはずだった。電話から漏れ聞こえたさんを取り巻く周囲の雑音は23時を回っているというのに騒がしかった。それは居酒屋や歓楽街の煩いと一蹴してしまえるような類のざわめきではなくて慌ただしい類のいやな騒がしさだ。パトカーの音が止むことなくずっと響いているのは警察官というさんの職業柄だ。世界が平和にならないから俺の彼はいつだって忙しい。警察官というさんの仕事を理解しているし、さんが望んで就いた仕事だということも理解しているし、さんが好きでこうして休みなく働いているわけではないということも理解しているし、さんが俺との約束よりも仕事を優先するのは俺という存在を軽んじているからでは決してないのだということも正しく理解している。けれどもそれと、俺の時間があるべき形で消費されていないという事実に対する悲嘆はまるで別次元の問題だ。
 この一週間、俺も仕事が忙しくて文字通り飛んで会いに行くことすらもできずにいて、さんに会いたくて会いたくて仕方がなかった。きっとそれは俺だけではなくさんも同様に思ってくれているはずだからそこを突っ込むつもりは毛頭ない。けれども、悪い、行けなくなった。そう告げたさんの言葉に思わず、またですか、べつに無理して毎週会わなくてもいいですけど、と口が滑った。勿論、すこし会えないくらいで今更どうにかこうにかなってしまうようなやわな感情ではないと、そういったニュアンスのものだったのだけれども、携帯電話は声を拾うのみで細やかな愛情はこの場に置き去りにしたらしい。技術革新が聞いて呆れる。

「……あ、流れ星」

 なにげなく見上げた空にチカリと星が流れた。瞬く間に消えてしまったそれに三回願い事をするだなんて芸当はいくら速すぎる男と呼ばれる俺でも到底無理な話で、なんだか屈した気になりながらも家路を急ぐ。もしも時速3キロ程度で流れ星が空を移動するのならば、俺はいまなにを願うだろう。敵の悪事がなくなりますように。敵が爆発しますように。さんの機嫌が直りますように。さんが電話に出てくれますように。この膨大な愛情がこのままさんに伝わりますように。願いは果てしない。けれど、そのどれもこれもが自分の利益に繋がる願いだったものだからその強欲さに自分で笑ってしまう。さんならば、なんと願うだろうか。さんの不機嫌な声を想像しながら通話履歴の画面から彼の名前をタッチすると、3コール程が過ぎたのち、想像通りにさんの不機嫌な声が出迎えた。いま忙しいんだけど、なんて。言葉はひどくそっけないけれども、その声色には微かな反省が内包されている。電話口の向こうは相変わらず騒がしく、仕事中にこうして電話を掛けることで彼の仕事の妨げになっている事実に申し訳ないと思う部分も確かにある。けれども、これだけはどうしても今訊いておきたいと思ってしまった。

「あの、さん、俺」
『なに、もういい今日は俺が悪い俺が全部悪かった。ほんと悪い許せ。埋め合わせ絶対するから。だから今日は悪い。またあとで電話する。もう行くから!』
「えっ、違いますさん待って」
『…………なんだよ』
「いま流れ星見て」
『は?なんのはなしだよ』
「時速3キロの流れ星が流れるって知ってたら、なに願います?」
『は?世界平和とか?』
「おお……想像以上に壮大な答えが……」
『おまえは』
「俺?」

 正直、口がすべってさんを怒らせてしまうことなんて日常茶飯事だ。さんの態度を手に負えないと思うこともあるし、感情がスムーズに伝わらないことに疲れてしまうこともしょっちゅうだ。けれどもそのたびにこうして容易く許し合うことができるものだからなんでも良いと思えてしまう。悪意はなくともどうしたって口はすべるもの。どうしたって愛しさが溢れることと等しく。

「俺は」

 世界で一番愛しい恋人の願いが叶うように願うことにしようか。