夏の獣が猛威を振るう八月の或る日、夏祭りに行きませんか、と誘ったのは俺の方からだった。
こういう祭りの折には人混みに紛れて喧騒に乗じて、必ずなにかよろしくないことを企てる輩が出るものだから完全にプライベートというわけにはいかないけれども、あわよくばデート紛いのことができたりしないだろうかなんて期待して、誘いを快諾してもらえたという事実そのものに多少なりとも舞い上がる気持ちがあったことは隠すまでもない。だから、すこしだけ、ほんのすこしだけ期待する気持ちも無くはなかった。それでも無駄に期待して後からダメージを食らうことのないように、とある程度の覚悟は決めていたのだけれども。
「……う、わー……」
「どういう反応だよそれ」
「いや、あの、すっげえ、似合ってます」
「……そ、」
いざというときすぐに対応できるようにと動きやすい甚平を纏ってさんを待っていた俺の前に現れたのは、例のシンプル極まりない私服でも甚平でもなく浴衣を身に纏ったさんの姿だった。藍染めの浴衣に白の角帯を合わせて下駄を履いている。地面の石畳と擦れて僅かにからからと鳴る下駄の音が夏らしさを格段に上げていた。さんは割とタッパがあるから余計に栄えるというか、現に先程からちらちらと刺さる視線の殆どは俺の隣を歩くさんに向けられている。
待ち合わせの時間より5分程遅れての到着だったものだからなにかあったものかと憂慮していたのだけれども、曰く「悪い、俺の目の前で引ったくりなんかするバカがいたからちょっとしょっぴいてきた」だそうだ。流石だ。
「さん、浴衣似合いますねー」
「それさっきも聞いた」
「俺も着ればよかったかな」
「甚平も似合ってんべや」
俺が着ている海松色の甚平は確かに涼しいし歩きやすいしこれもまたいかにも夏らしいものではあるけれども、浴衣に比べれば丈は短いしお手軽すぎるしどうしたって簡素に見える。さんの隣に並んで見劣りするとは思いたくないけれども、それなりにもっとちゃんとした格好をしてくるべきだったろうか、なんて薄らと後悔が頭を擡げたのは仕方がないことだと思う。誰だって恋人の隣に立つならば少しでもお似合いと思われるような姿でいたいものだ。
がやがやとざわめく人混みのなかを暫く並んで歩いていると、「俺あれ買ってくる」と俺の袖を軽く引いてさんが指したのは大判焼きの屋台だった。どうやらさんの方はそれなりに祭りを満喫しに来たらしい。待ってるんでどーぞ、と言うと颯爽と屋台の方へ駆けていったさんの後ろ姿を見送って、はたと気づく。最初に見たときは気づかなかったけれども、さんの後ろ髪を飾っているのはいつかの日に俺が贈った髪飾りではないだろうか。
遠方に出張へ出ていたとき、たまたま露店に並んでいた紫陽花を模ったバレッタ。ひと目見た瞬間に、これはさんに似合うだろうなと思い即購入を決めたものだ。渡したその時には「これ女物じゃねえの」などと顔を顰めていたものだからタンスの肥やしかなにかになるものとばかり思っていたけれども、そもそもが五年以上前に警察学校時代の同期から貰ったルービックキューブを未だ持っているようなひとだ、物持ちの良さとものを大事にする気概はきちんと備わっている。
思った通り、紫陽花のバレッタはさんに誂えたように良く似合っている。髪もいつもの適当なお団子結びではなくフィッシュボーンの編み込みをしていて、あれをさんが俺のためにわざわざ結っていたのだと思うとそれだけで腹も心も満たされるような心地を覚えるのだからさんの存在は偉大だ。
「ん」
「あ、買えました?」
大判焼きが入っているのであろう紙袋を抱えたさんが戻ってきて、顔を合わせるといましがた覚えた感慨に思わずにやにやしてしまう。なにニヤけてんだよ、とでも突っ込まれてしまうかと思いきやそんな俺の奇行には既に慣れたとでもいうふうに気にした素振りを微塵も見せないさんはマイペースにがさがさと紙袋の口を開けて取り出した大判焼きにかぶりついた。背丈の割に筋肉が付きにくい体質だからか見た目はひどく華奢に見えてしまうけれども、さんは存外よく食べる。俺のように空を飛ぶような能力はないというのに、一体どこに食べた分のエネルギーが消費されているのか気になって一度訊いたことがあった。
さんはみずからの個性を「遠目」と呼んでいる。それはつまり遠くのものが良く見えるということかと言えばそういうわけではなく、どちらかといえば遠くのものが見えるのはさんが先天的に持つ能力のことであって、個性そのものの特性は高速度カメラ、いわゆるハイスピードカメラのようなものだそうだ。ハイスピードカメラとは一秒間に30フレームを超えるコマを連続的に撮影できるカメラのことであり、ハイスピードカメラで撮影した映像を通常のコマ数で再生すると通常の速度の現象がスローモーションとして見えるためスーパースローカメラと称されることもある。つまり個性を使用しているさんの目には全てのものものがスローモーションに見えるということだ。スローで見ている最中でもみずからの動作速度に制限はなく、加えて動きの予測を立てて衝突を回避したりだとかいう衝突被害軽減ブレーキ紛いの能力さえも標準装備、つまりは個性ではない先天性のものなのだからとんでもないチートだ。俺も普段こそ煩わしさを覚えてつい空を飛んでしまうのだけれども、さんと人混みを歩くと人とぶつかることが殆どなくすいすいと進めることにいつも感嘆してしまう。
そして、さんの能力は個性も含めて目に大きな負担が掛かる。目に負担が掛かるということはつまり脳に大きな負担が掛かっているということであり、常に脳を使っている状態であるさんは、俺とはまた違ったベクトルで大量のエネルギー摂取が必要になっているということだ。
「お好みベーコンとクリームとうぐいす豆どれ食う」
「あ、俺も貰っていいんですか?」
「この量ひとりで食ってどうすんだよ」
既に一つ目を早々に平らげたらしい。一体何個買ったのかはわからないにせよさんならひとりで食べ切れるだろうな、と思ったけれどもこれは野暮だなと口には出さなかった。じゃあお好みベーコンください、と言うと紙袋から取り出した大判焼きを手渡すでもなく口に向けて差し出される。えっ、このまま食えと?と目を向けると二つ目らしき大判焼きを咥えたさんは早く受け取れと言わんばかりに顎をしゃくった。いくら祭りの喧騒で声が通らないからといって喋るのを諦めるのはやめて欲しい。仕方ないなと思いつつもパン食い競走のごとくぶら下げられた大判焼きにかぶりつくと途端に口内に広がるソースの匂いに、ああ夏だな、なんてよくわからない感想が脳裏をよぎる。
「さんりんご飴とかは食べないんですか?」
「あれえらい食いづらいからいらね」
りんご飴食べるさんとか可愛い絵面だろうな、と思って訊いてみたもののにべもなくばっさりと断られてしまった。言ってることは尤もだけれどもその理由は野暮極まりない。りんご以外のフルーツ飴だったら食うけど、と言いながら並ぶ屋台に目を走らせているさんがふと一点に視線を止めた。
「笹本」
聞き慣れない苗字に首を傾げると、さして大きな声というわけではなかったのに耳に届いたというのか、ササモトと呼ばれたひとりの女性が振り返ってさんの姿を視認したのか僅かに目を細めた。私服姿のその女性は肩口に届かない程度の髪にゆるいパーマを当てていて、キリッとした眉と涼しげな目元にやや冷たい印象を受ける。さんが挨拶代わりにひょいと片手を挙げると面倒臭そうな顔を隠しもせずに人並みを縫ってこちらに寄ってきた。
「あんたバカか?こういうときは気付いても会釈だけで済ますもんなんだよ」
「相変わらずだな笹本、そんなんじゃどうせまだ未婚なん、いって!」
べちり、と些か痛そうな音を立てて無言の平手が側頭部に決まった。あ、痛そう、とは思ったけれども正直言って今のは自業自得だ。そこを擁護する気はない。痛いと声を上げつつも蹲る程ではなかったのかササモトさんとやらが手加減をしたのかはわからないけれどもさんにここまで横柄な態度を取る人間を俺は知らなかった。ともすればひどく親しき仲とも見えるそれに、けれども積乱雲のようなどろどろとした感情が胸中に渦巻くことはなく、なんとなくさんと雰囲気が似ているというか、それはどこか兄弟喧嘩のようにさえ見える。
「あんたそんなんだから彼女できないんだよ、どうせまだ童貞だろ」
「なあおまえこんなとこでそういうこと言う?」
悪かったって、大判焼き食う?いらない、くれっつったってくれないくせに。容赦なくぽんぽんと交わされる悪態の応酬について行けず、少なくともまだ童貞なのは間違いないよなあ、とだけぼんやり思いつつさんの腕を引いた。そこで漸く俺に気付いたのかササモトさんが目を細めてひどく冷ややかな視線をさんに浴びせ掛ける。
「あんたツレがいんなら気遣えって、そういうとこだよ」
「いやほらさ、紹介してやろうと思って。こいつ笹本絵里、前に話した警察学校んときの同期な。笹本、こいつホークス、ヒーローやってる」
「はあ、」
「は?紹介?彼氏ですとでも言うわけ?」
「そうだけど」
「はあ?」
ササモトさん、もとい笹本さんはどうやら件のルービックキューブのひとらしかった。笹本さんと俺とを交互に指して雑な紹介をするさんの言葉で不可解そうに寄せられた眉間に、すとん、と心臓の上に鉛が積る。不安を煽る類のそれだった。ああ、まずい、逃げ出してしまいたい。けれども、予想外なことに笹本さんの口から出たのは否定的な言葉などではなかった。
「あんたほんと昔から男にしかモテないよな、可哀想に」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「えーと、ホークス、さん?こいつほんとどうしようもないバカだから思ったことは言ったほうが良いよ、遠慮しなくていんだから」
「はあ」
「聞けよ話を」
「あんたは黙ってな」
お前には言っていないとばかりに再びさんの頭にばしりと繰り出される平手。思わず唖然と間抜けに口を開けてしまう。もはやコントだ。
「こいつさ、ほら、親いないでしょ。身寄りもないしてっきりこのまま独り身で死んでくもんだと思ってたから」
「縁起でもねえこと言うな」
「でもあんたみたいなのがいてくれたら安心だわ。支えてやってよ、こいつのこと」
「それは、まあ、はい」
同期というくらいなのだから恐らく同い年なのだろうけれど、どこか達観している節が垣間見えてなんだかさんの母親みたいだ。支えていくのは当然とばかりに俺が頷くと、満足そうに鼻を鳴らした笹本さんは再びばしりとさんの背中を思い切り叩いて、俺たちが向かっていた境内とは反対側に去っていった。少なくとも数年来に会った同期に対してじゃあねもまたねの一言もない雑対応だ。さんが気にする素振りはないからおおよそ彼らにとってはそれがニュートラルなのだろうとは思うけれども、なんだか怒涛の展開すぎて正直呆然としてしまう。
「……なんか、悪い」
「いえ、俺は全然」
ところで頭と背中大丈夫ですか?と何度か叩かれていた身体を憂慮して問うと「あいつ久しぶりに会ったくせに手加減しねえのな、くそ痛えわ」と呟きながら頭をさすった。やはりあの良い音と相応に痛かったらしい。
「あの、さん、俺、なにがあっても貴方のこと手放す気は毛頭ないんで」
「……わかってるっつーの」
なにを今更、という呆れた顔をしてこちらを見遣るさんに、ああお互い覚悟はとうにできていたのだと思い知る。すとん、と心臓のうえになにかが落ちた。それは先程のような不安を煽る類のそれではない。もっと逆の、眩しすぎるなにかだ。意識の外に追いやっていた喧騒が次第に戻ってくる。がやがやとした人混みのなかを再び縫うように歩き出したさんの手は、俺のそれと繋がれている。人目のつくような場所でべたべたと触れ合うことを好まないはずのさんが、だ。それがどんな意味を持つかだなんて聞くまでもない。
始まりはひどく凄惨なものだったけれども、日常の端々に転がっているはずの運命的出会いに手を伸ばすことも叶わずただただ目を光らせていた子供だった頃よりずっと良い。この期に及んで疑いを携えたまま恋愛をするだなんてばかげている。日常の端に転がっていた運命的出会いをたった一度捉えた俺の両目はもう逃さない。あたりまえだと思ってはいけない幸福は、けれどあたりまえのようにそこにある。羞恥もプライドも捨てて、なりふり構わず掴みに行って、やっとの思いで掴んだ俺だけの後ろ髪だ。
「だから、」
来年も、再来年も、この先ずっと、このひととまたここに来たい。