「あれっ、さんもう上がったんですか」
「ん」
さんが俺の部屋に来たときに置いて行ったままだった文庫本のページをぺらぺらと速読のように捲って時間を潰していたとき、ぺたぺたと湿った肌がフローリングの上を歩く音が聞こえて、文庫本を閉じて振り返ると上半身裸のハーフパンツ姿でタオルに頭に引っ掛けたままのさんが眠そうに目を細めて軽く頷いた。
あまり浴槽に長く浸かることを好まないさんは、そもそも入浴時間自体がひどく短い。寒がりのわりに冬でも浴槽に浸かることは三日に一度くらいの頻度らしく、夏場になればそれはより顕著になって、シャンプーや洗顔を早々に済ませると冷水のシャワーをさっと浴びるのみで終わらせてしまう。まるで烏の行水だ。それでは子どものときからそうだったのかと問えば案外そうではないらしく、なんでもご両親が健在だった頃はいつも父親か母親のどちらかと一緒にお風呂に入っていて、頬が火照って焦点がおぼつかなくなってくるのをご両親がすぐさま見計らってお風呂から出されていたそうだ。誰かとお風呂に入るのが当たり前だったから、初めてひとりで入浴した折に湯中りして吐いてしまったのがトラウマになっているらしい。
どこか完璧主義の節があるものだからそういった弱い部分の露呈はなかなかしてくれないけれども、さんにもなにかしらに対しての苦手意識というものは確かに存在していたのだと思うとなんだか安心感を抱いてしまう。俺もすこしは気が許されているのだろうか。
「ていうかさん髪びしょびしょじゃないスか、ちゃんと拭かないと風邪引きますよ」
「……んん、」
辛うじて水滴は垂れていないけれども今にも滴り落ちそうな程に湿っている髪を嗜めると、返事にもならないなおざりな返事をしたさんはぼすりとソファに深く腰を下ろすと眠そうにあくびをひとつ。なんだか猫みたいだ。基本的に人見知りを拗らせているさんは、けれども慣れた相手にはそれなりにパーソナスペースが狭くなる。こうして俺の部屋で寛いでくれるのは無意識下レベルでの信頼と信用の証であることをわかっているから、元々歯が立たないというのに殊更強く言うことなんてできなくなってしまう。
「ああもうほら、寝ないでくださいって」
「んー」
「んー、じゃないですよ」
頭拭きますよー、と言いながらソファの後ろに回って頭というよりは後頭部に乗せていたタオルを取り去って、どうにかソファを濡らさないようにと配慮はしていたのか俯くように下げていた頭を起こさせて、髪にふんだんに含まれた水分を拭き取っていく。俺の髪であればわしゃわしゃと適当に水分を飛ばしさえすればあとは自然乾燥に任せるままでも全く問題はないのだけれども、ことさんの髪ともなればそうはいかない。光が当たるとオリーブグリーンに輝くきれいな黒髪の艶やかさを損なわせてはならない。キューティクルが傷ついてしまわないようにと自分に対しては絶対にやらないであろう丁寧さで慎重に髪を拭いていると、存外にも気持ちが良いのか日当の猫のように目を細めたさんがぽかりと口を開いた。
「……なんか、おまえ、かあさんみたい」
……わかっている。深い意味のある発言ではない。ただ襲い来る睡魔に思考力を奪われて、特に意識もせずに吐き出された言葉だ。それは、わかっている。
「っん、ふ!?」
けれども、だから。さんの顎下をぐっと掴んで上を向かせて、そのまま唇を奪ったのは別に悔しかったからだとか歯痒かったからだとかなにか遺憾めいた思いがあったわけではないし、ましてや癪に障ったわけでもない。ただ俺がそうしたかったからそうした、それだけだ。
普段はすることのない体勢、しかも仰け反るように上体を後屈させているさんには苦しさの方が強いのだろう、先程まで苛まれていた睡魔が吹き飛んだかのようにぱちりと目を見開いて瞳に驚愕と焦燥を滲ませるさんの表情にどうしようもなく劣情を刺激されてしまって、酸素が足りなくて次第にぼんやりと虚ろになっていく瞳の潤みを認識して漸く唇を離す。途端、噎せるように咳をしながら身を屈めて酸素を肺に取り込む作業に必死なさんにきっと睨まれるけれども、顔は真っ赤で威圧感など微塵も感じられないし、そもそも俺は悪くないのだから謝る気には到底ならなかった。
「、っは、おまえ、い、いきなし、なんだよ」
「……だって、」
すぐにすみませんと一言謝って、脈略もなく愛しているとでも告げれば向けられる厳しい視線と困惑と当惑の感情はあっさりと解消できるのだろうけれども、どうしても、どうしても謝りたくはない。何故か。意地だ。
「だって、“お母さん”はこげんことせんやろ、」
いつものように笑って、できうる限り気にしていませんよというふうに言ったつもりだったけれども、実際吐き出してみればそれはあまりに苦々しく、どうしようもなく強がるような色を大きく乗せて空気を震わせた。ともすれば今にも泣き出しそうな声にも聞こえてしまって、まずい、やらかした、と早速後悔が頭を擡げる。忸怩たる思いが心臓に降り積もっていくようで気持ちが悪い。
次になんと言ったら最善かわからなくなってしまって、はくはくと意味のない口の開閉を繰り返していると、一瞬ぽかんと目を丸くしたさんはなにも言わず身を捩りながらからだを伸ばして、ソファに膝を乗り上げたかたちで背凭れの後ろにいる俺をぐっと抱き締めた。思わず動揺露わに身体が大げさに跳ねてしまう。
「悪い、おまえは俺の親じゃないもんな」
ソファから身を乗り出したさんの雄勁な腕は俺の頭をすっぽりと覆い、肩口に顔を押し付けるように引き寄せられる。離してください、とは、とても言えなかった。え、だの、あの、だの、言葉にもならない喃語を吐き出す俺に対してとうに睡魔など振り払ったらしいさんは決して触り心地は良くはないだろうに、俺の髪に鼻先を埋めるようにしたのがわかって、心臓がばくばくとうるさい。今にも膨張しきって破裂してしまいそうだ。
「“ヒーロー”としてのおまえも、そうじゃない一個人の人間としてのおまえも、ちゃんと、向き合って大事にするから。だから、大丈夫だ」
心臓が止まるかと思った。
俺の生い立ちも、ヒーローになるべき人間として育てられた俺が世界の安寧と引き換えに穢れ役を引き受けていることも、ヒーローが暇を持て余す社会にしたい本当の理由も、さんはなにひとつ知らない。なにひとつ知らないというのに、さんには全てを見透かされているような気持ちになってしまうのはなぜだろう。刑事の勘、というやつだろうか。
これを本当に恋だの愛だのといった類のものであると言い切って良いのか、もしかしたらまともに受けることのできなかった他人からの寵愛の不足による寂寞を埋め合わせているだけではないのかとか、躓いたときに道連れにできる蓮の台の半座を分かつ誰かが欲しいのかとか、誰かに想われている安心を表立って望むことのできないみずからの安寧の実感として手に入れたいのかとか、疑いは絶えず心臓の裏に張り付いていた。例えばなんらかの意味を持って生まれてきたというのであればそれは決して恋愛に感けるためではないと思っていた。誰かに愛されるためでも誰かを愛するためでもなく生まれて、心臓が働きを終えるまでに正答を見出さなくてはと思っていた。
けれども、回答欄は既に埋められていたことを思い出す。例えばなんらかの意味を持って生まれてきたというのであれば、それはさんを愛するためだ。たったそれだけで構わないと思っている。たったそれだけで満たされている。
「さん、すき、です」
「……ん、知ってる。俺も」
採点を誰が成すのか、それは定かではないけれどもこれこそが俺の見出した正答だ。
なによりも、誰よりも、彼が好きだ。