彼が好きだ。
この季節には壊れたコンパクトディスクみたいに寒い寒いとよく喚く。さんの声は声変わりを済ませた後もすこし高く、かわいらしい女の子、とまではいかなくとも十分に彼の印象を幼いものにしていた。しかしさんの顔はちょっぴり怖い、らしい。俺は怖いとは思わないしむしろきれいで可愛らしい方だと思うのだけれども、それは長い季節と深い関係を二人の間に敷いているからであって、周囲の人間は、さんには多少近寄りがたいものがあるという。それでよかったと安心してしまうのだから俺も大概性格が悪い。
かっこいいさんがあるひとも多くいるだろう。それでもそんな彼が手の中にいてくれることを、俺は大いに誇っていいはずだった。
はよ帰んべ、なんて上級生のくせにわざわざ二つ階を上って迎えに来る。そんなに愛おしいひとを無下にできるわけもない。よろよろ危なっかしい数学のおじいちゃん先生はまだ教壇の上にいらっしゃるけれども、チャイムが鳴ったのならもう放課後。教室の後ろのドアを無遠慮に塞ぐさんに至っては、チャイムが鳴ったと同時に教室を飛び出したような出で立ちだ。
鷲色のダッフルコートはボタンも留めずにただ羽織っただけ。彼が寒い寒いとあまりにもうるさいから、先週の週末に一緒に買いに行ったのだ。俺が選ぶとダサいだの高いだのなんだのとぶつくさ文句をたれたのに、結局購入して、月曜日から早速着こんでいるもの。きっと教科書なんて殆ど入っていないのだろうリュックは片方の肩になおざりに引っ掛けただけで、マフラーに至っては手に握りしめている。
「すみません、ちょっと待っとってくださいね」
「俺こんな急いでんのばかみたいじゃねえか」
そう言ってさんは眉根を寄せて目尻を下げた。先輩かっこよかねえ、なんて俺に言い寄ってくるクラスの女の子たちから漏れた含み笑いが僅かに痛い。半分みみずがうねったようになっているノートは見なかったことにして、机の上のものを一切合財バッグへ放り込んだ。
廊下を歩く時はつんと澄まして隣を歩き、昇降口を通って、少し歩いた後に人通りの少ない住宅地へ入り込む。今日は角を曲がったところで立ち止まって、さんがずっと握りしめていたマフラーを巻いてやった。ついでにコートのボタンも留めろなんていうから、断ることができずに彼の言うとおりにすると、さんはもごもごと僅かに口元を歪める。これは心底嬉しいことを表に露呈することを抑えているときのさんの癖だ。その素直ではない表情につられて俺も笑う。
暗くなり始めた静かな道を歩くとき、さんと俺は今日はあの授業が眠かっただとか、急に質問されてびっくりしただとか、そういった他愛もない話をしながら、わざと遠回りをしてコンビニに寄って、ひとつだけホットスナックを買う。大抵肉まんかピザまんと決まっていたけれども、たまに意見が分かれた時はレジ前でじゃんけんをする。これがすこし恥ずかしい。半分ずつお金を出し合って、半分ずつ食べるのが常だ。
俺は二つ三つと食べたってまったくお腹が膨れないけれども、さんと分け合うのならなんとなく、なんとなく、お腹がいっぱいになる気がするのだ。今のところはする予定もないのだけれども、さんと一緒にいればダイエットだってできるかもしれない。
コンビニの前でできるだけ時間をかけてそれを平らげると、またまたできるだけゆっくりと家路を進む。冬の間は陽が落ちるのがはやい。すっかり暗くなって街灯も少ない道だから、できるだけ寄り添って、手を繋いで歩く。
「さん」
「……なに」
「俺もバカばい」
「なにが」
数十分前に自分が言ったことすら覚えていないようだった。さんの言う「ばか」はたぶん、さんの方が俺のことを愛しているみたいだ、という意味だったろうと思ったのに。けれどもそれはあくまで打算的で実際家的な俺の考えだから、どこまでも潔いさんの考えとは異なっていたかもしれない。きっと俺はさんが思うよりもずっとずっとさんを愛しているし、いとおしくこれ以上なく大切に思っている。人に隠して繋いだ手は悲しいけれども、夏場のそれと違って冷たいさんの手が繋いだ途端に俺の体温が伝わってほかほかと暖かくなっていく過程がなによりも嬉しい。
「さん、」
「なん、おまえさっきから」
「俺、さんのことすき」
「……ん」
「すいとーとよ」
「ん」
跳ねるような歩き方はすこし華奢な体躯を気にして育ったせい、先述したようにすこし怖い顔はちょっぴり素直じゃない心のせい。小さなころから女の子にちやほやされてきたくせに、俺の気持ちには上手に応えてくれない、そんな愛おしいひと。ぶっきらぼうに返事をしたきり背中を丸めてしまって、俺より僅かに高い身長がなんだか一回り小さくなったように見えた。街灯に照らされた頬が少し赤い。さんが照れていると気づいて、意識してみたら案の定こちらにも恥ずかしさが伝染する。ますます温度の上昇したさんの手を握って、精一杯ゆっくり、できるかぎりの遠回りをして、家に帰ろう。