「……あー、しゃっこい」
飛行能力がなく体温調節の方法が限られているさんにとって、ベランダにちいさな子ども用のビニールプールを置いて、そこに水を満たしておくのはもはや必須事項、夏の風物詩になりつつあった。たとえば高い気温や飛行によって体温が上昇したとき、鳥類は足の血流を多くし、それを外気で冷やすことで体温を下げている。足は放熱に最適の場所を提供していることを示しているのだ。水に浸けた脚を少し動かすと、ちゃぷりちゃぷりと水が跳ねて揺れて波紋を生む。ベランダに続く大窓の桟に吊り下げているガラス製の風鈴が奏でるちりんちりんというかわいらしい音も相成って、部屋には涼やかな空気が漂っている。
「気持ちいいですか?」
「ん」
「スイカ食べます?」
「ん」
冷蔵庫に放置されたままだったスイカ半玉をさらに半分にしてからくし切りにして大皿に乗せると、卓袱台をずるずると引き摺ってさんが座っている近くに設置した。半玉なんてひとりで食べるには多すぎるサイズのスイカをさんが買うとは到底思えなかったのだけれども、どうやら大家さんに頂いたらしい。平素愛想というものを知らないさんは、けれどもその端麗な容姿のおかげか警察官という職業のおかげか、ご近所さんに相当気に入られているようで、先日もキュウリだとかトマトだとかをお裾分けされていたのを思い出す。
ベランダのプールに足を投げ出したさんからも届く距離、それでも外からの直射日光は当たらない位置にスイカの乗せた皿をどんと置いて、俺もさんの隣に座り込んだ。夏場になると怠さのせいかいつも以上に言葉数が少なくなるさんはたった一言、一文字を呟いてスイカに手を伸ばす。仙台弁というよりは岩手県南のそれに近く、また祖父が秋田の出身らしく、青森南部のそれと比べればまだ優しい方であるのかもしれないけれども、地元宮城を離れて優に五年以上は経っているというのに抜けきらないどころか絶妙にちゃんぽんされた東北訛りと方言は、稀に俺をひどく翻弄させた。さすがにそろそろ「け」と「く」というたった一言の応酬だけで意味が正しく通じるのは秋田県民くらいだと分かって欲しい。
「……えらい甘いなこれ」
「ああ、ほんとだ、当たりですかね。いいもの貰ったなあ」
「塩取ってくる」
スイカに塩って、今ほど品種改良が進んでいなくてあまり糖度が高くなかった時代に味の対比効果で青臭さを誤魔化すために使っていたものだと思うのだけれども。ただまあ、甘党というよりどちらかといえば辛党に近いさんの味覚だと、塩を掛けるくらいでちょうどいいのかもしれない。そういえばスイカは好きだけどメロンはあまり好きではない、と言っていたような気がする。青肉のメロンは好きではないけど赤肉のメロンなら好き、とも。青臭い瓜系の食べ物が苦手なのかと思いきやキュウリは夏になれば殆ど毎日食べるくらいには好きなのだからよくわからない。最近は塩昆布きゅうりの浅漬けがお気に入りらしい。まあ、別に俺はさんがスイカを好きであろうがメロンを嫌いであろうがキュウリを好きであろうが個々人で千差万別の嗜好に口を出す気はないのだけれども。食べ物の嗜好がどうであれ、俺がさんを好きだという事実が揺らぐことは一切ない。
必要になるだろうと思い窓の近くに置いていたバスタオルで水に濡れた足を拭ってさんが台所に向かう。ぺたぺたと鳴る足音はまるでペンギンのようでかわいらしい。鎖骨あたりまで伸ばされた髪は暑さのせいか珍しく括ってあって、ぴょこりとちいさなお団子が作られているその後ろ姿はさながら女の子のようであった。白いうなじが晒されて、いつもより幼く見える。
「? なに」
食塩の入ったガラスボトルを持って戻ってきたさんが俺の熱視線に気付いてこてりと首を傾げた。平素不機嫌を滲ませることの多いさんが訝しがるでもなく眉間に皺を寄せることなく、ただ純粋な疑問を瞳に表わして首を傾げる姿はどこかあどけない。肌が比較的白いせいもあるのだろう、色素は薄くないけれども光が当たるとオリーブ色に輝く黒髪と、梅雨時期に咲く紫陽花のような鮮やかさを持つ薄い青紫の瞳は、まるではかなさと色香を纏った海外の美少年のような印象を受けた。
「さんはきれいだなあって」
先程までの定位置に再度座り込んでビニールプールへ足を突っ込むさんに向かって笑みを浮かべてそう返すと、こんなに長い付き合いだというのに未だ褒められ慣れていないのか、きゅっと口元を引き結んで目を逸らしたさんの目元は僅かに赤く染まっている。
天の邪鬼とまではいかないけれどもそこそこ素直ではないさんは、それでも存外感情が顔に出やすい。眉間に皺を寄せるのは照れ隠しのため。引き結んだ唇は弛みそうになるのを抑えるため。この上なくかわいらしいと思った。
赤らむ顔を誤魔化すようにスイカを齧るさんの空いた片方の手にみずからのそれを重ねるようにして乗せると、不意打ちに驚いたのか身体が跳ねてばしゃりと水がプールの外に零れた。いつまで経っても初なそのひとつひとつの仕草にもんどり打ちたくなる感情をこころのうちだけに留めて、へらりとゆるく笑うと、揶揄られたと思ったのか拗ねるように口元を歪めたさんにぐっと顔を近づけて唇を攫う。先程よりも大げさに身体が揺れて、足を動かした瞬間にビニールプールのふちが歪んでざばりと水が溢れ出た。
「っん、……おい、」
「……はは、しょっぱかー」
最後にぺろりとひと舐めして離れると、さんからじとりと鋭い非難の視線を受けたけれども、そんな奥の奥に熱の籠った目で見られたって怖くもなんともない。唇を舐めてみてもレモンの味など露程もしなかったし、甘酸っぱいどころかむしろしょっぱかった。
それでも、少なくとも俺にとってはこれ以上ないくらい極上の味だ。