l'oiseau bleu du bonheur



 まだ残暑の余波が残る九月、宮城の山中では未だジワジワと蝉の鳴き声が大合唱のように響いていた。見渡す限り広がる田んぼと山に囲まれた土地を踏むのは滅多にあることではない。さすが東北と言うべきか、盆地であるにせよ舗装されていない道が多いおかげだろうか、コンクリートジャングルである都心や西南に位置する九州に比べれば随分と風通しは良く幾ばくも涼しく感じられた。

さんって山育ちだったんですね」
「お袋は東京の人間だったけど、親父が三陸の生まれなんだわ。俺が産まれてからこっちに越してきた」

 三陸というのは三陸海岸のことだろうか。確か、青森県八戸市の鮫角岬から岩手県の太平洋側を経て宮城県の牡鹿半島までのリアス式海岸および付属諸島を指す地理的名称で、令制国の三陸に跨って連なることからそう名前が付いたのだと習った記憶がある。
 エアコンを付けずに窓を全開にしたライムメタリックグリーンのピノを走らせて、車はどんどんと山道を進んでいく。部屋の四隅に吹き付けるタイプの防蚊スプレーを塗着させたおかげか、蚊や蝿のような類が車内に入ってくることはない。田んぼの横にかろうじて乗用車一台が通れる程度の畦道は、整備されていないためにガタガタと石にぶつかって揺れる車体の振動が直に伝わる。地味に尻が痛い。

 夏休みが終わり、世間の学生たちが休みボケを引き摺りながらもどうにか以前の生活リズムに戻ろうと躍起になっている時期、夏休みの概念なんてほぼ無いに等しいヒーローと警察官である俺とさんはお彼岸に合わせて有給休暇を取った。
さんのご両親に挨拶をするためだ。
 いくら俺が我慢のできない性分だと言っても、すべてに於いて憂慮することがないわけではない。さんのご両親は、その第一関門でもあった。
 昔よりはずっと同性愛者への偏見も薄くなったとはいえ、完全になくなったわけではない。だからこそ、俺とさんの関係性をご両親が許してくださるかというのはきちんとしたお付き合いを始めた頃からずっと小さな不安要素として心臓の奥に沈殿していた。
 交際からおよそ半年が経過した折に意を決してご両親に挨拶を、と口に出したときのさんの表情は忘れられない。
 平素不機嫌を表情に滲ませることはあっても滅多に困ったような顔なんてしないさんが、眉を下げて苦く笑ったのだ。それから、「親はもう両方死んだ」と短く言った。あ、しくった。と背筋が凍るような感覚すら今でも鮮烈に憶えている。こんなデリケート極まりない話題を軽率に訊いてしまったことを後悔した。距離感を測り間違えたことは明白だった。普段はなにに対しても打算で動く卑しい手際の良さだというのに、こんなときばかり上手に立ち回れないみずからの迂闊さを呪いさえした。時代がいくら先進的になろうとも不老不死紛いの個性でも持っていない限り人にはどうしたって寿命というものがあって、死ぬことを悪いことだとは思わないけれど受け入れることができるかと言えば話は別だ。すみません、と思わず謝罪の言葉を述べる俺に「謝んなよ、どうせ人間いつかは死ぬんだから」と言いながらぐしゃぐしゃと俺の髪をかきまわすように撫でるさんの手は冷たかった。
 それからだ。もっともっと、このひとを大切にしなければならない、と思ったのは。

「着いたけど」
「……あ、はい」

 駐車場と言うには烏滸がましいような、トラロープが等間隔に張ってあるだけの砂利場に車を入れ、ぎっ、とサイドブレーキを引いてギアをパーキングに入れたさんは先に運転席から出て後部座席に置いていた花束を手にしてドアを閉めた。黄菊に白コスモス、紅色の百日草の生花が束ねられたそれは秋口に馴染む色合いで、宮城に戻ってきてからさんが新幹線の停まる実家の最寄り駅にある花屋で買ってきたものだ。俺も続くように助手席から降りると針葉樹の林があるすぐ横に墓石が50程並んでいて、その奥にお寺の屋根が見える。
 その光景を目にして、初めて来たはずなのにどこかで見たようなことがある気がする、と思ったのは何故だろうか。ざあ、と風が騒いで、ヘアバンドで後ろに流している俺の髪をさわさわと草原のように揺らす。
 家之墓、と彫られたさんの家のお墓は駐車場から一番近い、要するにお寺から最も遠い場所に位置していた。どうやら既にお参りを済ませたご近所さんがついでにと掃除をしてくれていたらしく、年に一度しか来れていないとさんが嘆いていた割に墓石はきらりと日光を鈍く反射させ、周辺には落ち葉や枯れ草のひとつも見当たらなかった。

「ん」
「あ、どうも」

 花束を四分して切り出し型の花立てに挿したあと、ライターで火を付けた線香を渡される。二箇所ある香炉の線香皿に二本ずつ供えて手を合わせ、くるりと振り返ると、既に供香を終えていたさんは階段の外でじっと墓碑を見つめていた。
 鳥類の寿命というのは種によってピンきりで、オウムなんかは100歳まで生きる種もあると聞いたことがある。そしてハトの平均寿命というのはおよそ三十歳前後らしく、勿論犬猫のような平均寿命が十歳そこいらのような種もいるのだから個性の持つ性質に動物の寿命が反映されることは殆どないのだろうけれども、不幸にもさんのご両親は揃って享年四十という御年でおよそ十年前にこの世を去ったという。父親はキジバト個性のカーレーサーで、母親はアオバト個性の栄養士だったそうだ。死因までは訊かなかったけれども、中学生になったばかりの僅か十二、三歳の多感な十代の真っただ中にある子どもだったさんにとって、親からの寵愛を受ける時間も不足したままたったひとりで暮らしていくには苦労も相当多かったであろうことは容易に察せられた。物欲がなかったり無意識のうちに節制していたり滅多にしない割には苦なく料理ができたり、他人から向けられる感情の機微に疎いことも含め、だいたいのことは全て自分でやってしまおうとするさんの性質は、もしかしたらその時から形成されてきたのかもしれない。

「……なあ、父さん母さん。俺さ、学生のときは女っ気ないとかなんとかしょっちゅう心配されてたし、今だって彼女はいねえし、結局孫の顔も見せらんないままになっちまったし」

 あ、やっぱり彼女いたことなかったのか、なんて脳裏でぼんやり考える。
 初めてさんのからだに触れたときの反応や下半身の状態を見て、もしかしたら童貞なのではないだろうかと邪推していたこともあったのだけれどもその推測は間違ってはいなかったのだ。そして俺以外にさんが身体を許すようなことも、さんが俺の知らない他の人間を抱くようなことも今までなかったのであれば、きっと今も童貞のままなのだろうけれども。じわじわとからだのなかをせり上がる夏の暑さとはまた別のそれに、仮にも恋人の御家族の墓前でなんてはしたないことを考えているのだろうか、なんて僅かに反省する気持ちもなくはない。けれども、そんな罪悪感やら後ろめたさよりも嬉しさの方が圧倒的に勝ってしまっているのだから困る。ああ、なんて醜悪なんだろう。

「いろいろ大変なこともあったけど。でも、もう大丈夫だから。俺、幸せになるよ、こいつと」

 墓碑から俺に視線を移して、至極穏やかに、へらりと目を細めて笑って、まるでプロポーズみたいなことを言うさんはとてもきれいで、心臓が止まってしまったような感覚に陥って、気がついたら俺はさんを正面から抱きしめていた。九月といえどこんなに暑いのに。さんは黙ったままだったけれども、それでも拒絶することなくみずからの腕を俺の背に回してくれて、俺はそこで初めて、初めてあの日の自分を救った。


 住職と話してくるから車のエアコン付けて待ってろな、と車のキーを俺に預けて寺に向かったさんの後ろ姿を見送って家の墓前に立ち尽くした俺は、ふと針葉樹の林と墓石が並んだ間に広がる草原に目を向けた。俺の腰にまで届きそうな高さに伸びきった猫じゃらしが、ゆらゆらと風に揺れている。
 そのひとつに手を伸ばそうとしたとき、すっと目の前をオニヤンマが通り過ぎた。
 思わず瞬きをした俺の目前には、ひとりの少年が立っていた。

「おにいさん、どこの人?」

 一体どこから現れたのだろう。腕を伸ばしてもぎりぎり触れられない距離に立つ少年は、およそ小学四年生くらい、俺の胸に届く程度の身長に、無地の白い半袖シャツに七分丈のパンツを履いて、肩口にまで伸びたオリーブ色の髪を風に遊ばせていた。くるりとまるい瞳の色は、初夏の紫陽花のような鮮やかな薄い青紫色をしている。声変わりをまだ済ませていないのに甲高くない、静謐な湖面に落ちた葉が波紋を広げるように入り込んでくるアルトが耳に心地良い。

「……えーと、福岡」
「へえ、福岡、したっけ九州?なじょして宮城のこんな田舎さ」
「あー、恋人の家族に、挨拶を」
「ふうん」

 思わずするりと口を滑らせ答えてしまう俺に対して独特のイントネーションと訛りでゆるく相槌を打つ少年は、表情を変えないままにじっと俺の顔を見つめてこてりと首を傾げた。

「おにいさん、今、幸せ?」

 幸せとは一体なんだろうか。幸せ・幸福とは心が満たされていると感じる状態のことを言う。つまり、幸せとは自分が幸せを感じる事で、幸福とは自分が幸福だと感じることであって、幸福感とあるように幸福は感じ取るものだ。
 幸せや幸福というのはどこからともなくやってきて受け身的に感じるものではなくて、自分から能動的に感じるものだ。けれども幸せはやってくるのを待つだけでなく自分から感じ取ることができるのだから、自分が幸せを感じようと思えば、幸せを感じる事に近づくことができる。自分の考え方次第で幸せに近づいたり遠ざかったりする。幸せになりたいと思うのであれば、自分の考え方を変えることで幸せになれる。逆に言えば多くの人が幸せだと感じるようなことでも、自分がそれを幸せだと感じなければ幸せではないのだろう。
 そんなふうに個々人の考え方ひとつで変わるのだから、幸福の個人差なんて論じたところで不毛だ。だから、つまり、幸せになりたいというのは単なる簡易的な語彙の怠慢で、そして俺の幸せとはなにかと問われれば、答えは単純明快だ。
 さんと共に生きることだ。

「俺は、しあわせばい」

 ざあ、と風が吹いて猫じゃらしが揺れる。
 さんが俺と一緒にいることで幸福を感じるかどうかについてはこの際気にしないことにして、俺が本当にさんを幸せにできるのかどうかの議論も一先ず横に置いておくとして、俺はさんを愛して、さんと一緒に幸せになりたい。そう思えることだけでも充分に満ち足りた気持ちになれるのだから俺も存外単純だ。今やこの命の内訳はさんを愛するためだけのもので構わないと思っている。
 いつの間にか回答欄は埋められていた。
 依然として表情を変えない少年は、そう、とたったひとことだけ呟いて、風で舞い上がる髪を抑えるようにして、そして、目を細めてひっそりとやわく微笑んだ。

「心配することなんてなんもないよ。大丈夫、おにいさんは幸せになる」

 その微笑みに、閃光が走るように脳裏を過ったのは他でもないこいびとの姿だった。

「、君は――……」
「あれ、おまえなんでまだいんの」

 後ろからさんの声がして、はっと振り返る。住職に貰ったのか、両手に瓶のサイダーを持ったさんが訝しげに眉を顰めながら「車で待ってろっつったべや」と言いながら片手に収めたサイダーのひとつを手渡してきた。直前まで冷やしていたのだろうか、夏らしい水色の瓶はひんやりと冷たい。

「いや、あの、子どもが……」

 瓶を受け取りながらも猫じゃらしの群生する草原に人差し指を向けながら振り返ると、先程までいた少年の姿は見当たらなくなっていた。

「いねえじゃん」
「いや、さっきまでいたんですって、ほんとに」
「このへんに子どもなんて住んでねえよ。そこの裏んとこの大山さん家の娘さんが一番若えんだから、今年で高校生だ」

 それでは、あの少年は一体何者だったというのだろう。ファンタジーというにはどこか怪談めいた奇妙さの残る、不思議な時間だった。「大丈夫、おにいさんは幸せになる」、そう言った少年の姿を思い出しながら隣に立つさんを見ると、俺の視線に気付いたのかこてりと首を傾げた。

「なに」
「いや、……なんでもないです」
「そう、したっけ帰んべ」

 ――へえ、福岡、したっけ九州?

 いや、そんな、まさか。でも、そうじゃないならどう説明する。いま、なにか、なにかとてつもなく重要なものものが確実に繋がりかけている。
 そういえば、俺はこの景色をどこかで見たような気がしたのだけれど、もしかしたら、それも。

さん、運命って信じます?」

 砂利の敷き詰められた駐車場に歩を進めながらそう問い掛けると、先程よりも眉間に皺を寄せたさんが「は?」と訝しがりながら車のキーを俺の手から抜き取ってロックを解除した。鎖骨のすこし上あたりにまで伸ばされた鳩子さんの艶やかな黒髪は、日の光を受けてオリーブ色に輝く。
 この広い地球上で俺とさんが出会ったことは奇跡でも運命でもなんでもないけれども、さんが俺のことを好きだと言うのは類を見ない奇跡だと思っていた。けれども、もしもさっき起きた不思議な出来事に対して俺の立てた推論が真実ならば、それはばかばかしいほど運命的だ。

「……運命なんかに頼らなくたって、心配することなんてなんもねえよ」

 ――心配することなんてなんもないよ。

 さんがすこし照れたように目を逸らして呟く、そうしてフラッシュバックする少年の声。ああ、このひとだったのだと確信した。常人には捉えられないほどの速度で駆け抜けて行く運命の後ろ髪を捕まえた思いだった。
 誰よりもさんを幸せにしたいというのに俺がこんなに幸せになってしまっていいのだろうか、と懐疑心を抱いてしまいそうになるけれども、もしもまだ願うことが許されるのならば、せめて、さんにとってのヒーローになりたい。お互いに仕事は忙しいし、切望する安寧とは裏腹に敵の悪事は絶えないし、世界はいつまで経っても平和にならないけれども、這い寄るありとあらゆる不幸を遠ざけて、迫る数多の不安を追い払うヒーローになりたい。

さん、俺、いま、幸せですよ」

 半ば宣言するようにそう口に出しながら、思わず手を伸ばして五指を絡めるようにして手を繋ぐと、さんが僅かに頬を染め、目を細めて、ひっそりとやわく微笑んだ。それを見ているだけでもじわりじわりとからだを満たす多幸感が襲ってくる。これ以上の幸せはきっとない。からだの表面で、愛しさが密やかに燃えるようだった。

 大事にしてね、と、遠くで、あの少年の声が聞こえた気がした。