「――そういえばお前、警察官と付き合ってんだって?」
また連絡するよ、とだけ言い残して去っていくと思っていた荼毘の言葉に、思わず握り締めた拳にちからが入る。警察官、付き合ってる。他でもないさんのことだ。認めたくはない上層部からの圧力でダブルスパイの隠密を始めてからというもの、さんにも周囲にも怪しまれない程度に会う頻度は極力減らしていたというのに一体どこから情報が漏れたのだろうか。
「それが何だよ」
「いいや?ただ、その恋人とやらはお前が“こういうこと”してんの知ってんのかなって思っただけだ」
余計なお世話だ。舌の端をくっと噛むと止め処なく口を吐いて出てきてしまいそうな言葉の諸々は漸く飲み込むことができた。けれども、心臓の奥底をとぐろを巻くようにぐるぐると巡る負の感情は抑えきれない。
「……別に、言う必要もないだろ」
「へえ、そんな大切なのか」
なんなんだこいつは、一体何を探っているのか。たとえ性別が同じであろうとそうでなかろうと、俺がヒーローでさんが警察であろうとそうでなかろうと、そこには互恵関係も利害関係もない。強いて言えば多少の依存関係にはあるかもしれないけれど、俺たちふたりの間にあるものはごく世間一般的な恋人のそれと大差ない。常に危険と隣り合わせなお互いの仕事には過干渉になってしまわないよう無意識に抑制している節があるから、たとえ憂慮させてしまう懸念があったとしても、俺が今“こんなこと”をしている事実をさんに言う必要性は全く以てないはずだった。
「なあ、№2ヒーローさんよ、――」
……それから、エンデヴァーさんの病室に訪問した後、自分がどうやってここまでの道程を辿ってきたのか記憶がない。ただ、はっと我に返って気付いたときには既に見慣れた表札の前に立ってインターホンのベルを押していた。無意識というものはかくも恐ろしい。
「……んだよ、こんな時間にめずらしい」
扉の奥から玄関のチェーンロックを外す音が聞こえて、部屋着兼寝間着のスウェットにカーディガンを纏ったさんが怪訝そうな顔をして扉を開けた。今から寝るつもりだったのだろう、ドアノブを持たない方の手には律儀にも栞の挟まれた一冊のハードカバー。どうやら日課であるらしい就寝前の読書というルーティンを遮ってしまったらしかった。
「……、すみません、なんでも、ないんですけど」
ちからの入らない表情筋を叱咤するように無理矢理に口角を吊り上げて、どうにかいつもどおりに笑ったはずだったのだけれども、さんの訝しむような表情は消えない。それどころかほんの僅か目を細めて、唐突にぐっと腕を取られたものだから大袈裟なくらいにからだがびくついた。無言のままぐいと俺の腕を引いて部屋に押し込むと、ばたん、がちゃり、と扉の閉じる音に間髪入れず錠を掛ける金属音が静謐な湖面のような空気を震わせるように響く。
「おまえ、今日は泊まってけ」
「え、いや、そんなつもりじゃ」
「なんもしねえから安心しろ」
そんな付き合ったばかりの学生カップルが初めてお泊りを経験するときのような会話を、今するとは思わなかった。玄関を開けるときに適当につっかけたのであろうスリッポンを脱ぎ捨てて、ずんずんと部屋の奥に進んでいこうとするさんの腕力に驚きながら慌てて俺も靴を脱ぐ。
国家公務員なのだから給料はそこそこ貰えているはずで、特に倹約家というわけでもないから意識して節制しているわけではないのだろうけれども、さんの部屋は存外狭い。大人ふたりがリビングに入ると途端に手狭に感じでしまう。だからこそ、しまった、と思った。この身も、視線も、逃げ場がない。
「おまえが話そうとしねえこと無理に聞き出すつもりはねえけど」
俺の腕は依然掴んだまま、ふたりして部屋の真ん中に突っ立った状態でさんが口を開いた。
「なんでもないって言うんならもっとうまく笑え、俺の前でまで嘘笑いすんな」
口調はいつもとなにひとつ変わらない荒いものだというのに、平素の粗雑さからは考えられないくらいに穏やかな声色でさんが言う。顰められた眉と目千両の奥にありありと浮かぶ憂慮の色に貫かれて、思わず息が止まってしまった。瞬きすらできずに見開いた俺の瞳に映るさんは至って真剣な顔をしていて気が動転してしまう。
強がりというわけでは決してないのだけれども、どこか見栄を張って悪戯に弱っているところを見せたがらない矮小な俺の傷心を悟ることも、さんにはひどく容易いことなのだと痛切に理解してしまった。悪意に膿んだこころの傷跡をそっと撫でる賢いさんの指先を、そっと握って抱きしめたくなってしまう。
今のおまえはだめだ。さんがゆっくりと口にして、俺はめいっぱい「だめだ」の意味を考えた。だめとは良くないことであり、正しくないことであり、間違っていることだ、たぶん。なにが今の俺は良くないのか、今の俺はなにが正しくないのか、なにが今の俺は間違っているのか、なにが。ぐっと手を引かれてからだを引き寄せられて、すべての問いはさんの体温に溶けた。
「ちょ、さん、べたべたすんのきらいなんじゃ」
「ちょっと黙ってろ」
さんの腕の中で硬直する俺の肩口に額を押し付けてさんが言う。背中にまわった両腕にぐっと力が入って、ぞくりと粟だった背筋が聞いたことのない悲鳴を上げる。心臓がばかになったみたいにどくどくと喉元で脈打つけれど、さんのそれに相殺されているようで彼がその事実に触れることはない。背中に回されたさんの腕は堅実で雄勁で、鎖骨に感じる息遣いがからだじゅうの神経だとか細胞だとかをひとつ残らず麻痺させる。
「なあ、おまえにしてみれば俺は頼りないかもしれねえけど、俺だっておまえのこと守りたいんだ」
息苦しそうにさんが言う。一体どんな顔をしてそんなことを言っているのだろう。
「……、、さん」
「すきだよ」
ひっそりと囁くようにさんが言った。
さんは優しくないけれども、それは分かりやすい形で優しさを示すほどに器用ではないだけでほんとうは誰よりも優しいひとだ。そんなさんがあからさまな慰めを口に出すことは珍しい。それでも、それが例え口先だけのものだったとしても、こころに張りついた憂鬱の端がぺらりと剥がれてしまうから不思議だ。
余裕のなさそうな声で、もっと人に頼れとさんが言う。なんの予告もなしに涙が出た。不覚だ。
「さん、」
「ん、って、うわ、おまえ、なに泣いて」
慌てふためくさんの左頬にそっと唇を押し当てたら、目元を真っ赤に染めた変な顔でなんだよ急に、とさんは拗ねるように唇を尖らせる。
本当は、突き放しに来たはずだった。
随分とながいながい時間と手間を掛けてやっとのことで手にしたさんの存在をみずから遠ざけようとするなんてばかげている。それでも、今の俺は普通の尺度から大きく外れた、まるで今にも割れてしまいそうな薄氷の中心に身を置いていて、そんな危険な場所にさんを巻き込んでしまうような凄惨な事態はどうしても忌避したいことだった。
「なあ、№2ヒーローさんよ、自分の一番大事な存在がいなくなるって、どんな気分だと思う?」
あんなあからさまな脅しにも動揺してしまう程には弱っていたのだと自覚する。だから、たとえさんがいつか俺じゃない他の誰かと一緒になるようなことがあったとしても、それでも、彼の身を取り巻く安寧を護れるのであれば、それでいいと思っていた。けれども、そんなものはただの俺の自己満足に過ぎなくて、さんを守ったと思い込みたい俺の傲慢で怠慢で、その驕りは今となっては疑わしいまがいものでしかなくなった。だから、さんのことを本当に思うのであれば、そんなことは絶対にしてはいけないのだ。
どうしようもなく胸のうちに広がる愛しさと共に、漸くわかったことがある。それは答えでもなんでもないけれども。
さんはもう、俺のものだ。今更絶対に、絶対に、手放すことなんてできやしない。