Who knows most, speaks least.



 じゅわわ、とフライパンの上で熱せられた油が跳ねる音が響く。ひどく食欲をそそる音だ。次いで肉と野菜の焼ける香ばしい薫りが漂ってくる。なんか、夏だな。なんて、この効果音に対して固定的な季節を感じてしまうのは空腹だからだろうか。キッチンではIHのクッキングヒーターと向き合っているさんの背中が見える。排気用の換気扇を回していても籠もる熱気で汗の滲む首筋も、普段ならひどく扇情的だと思うそれが今はなんだか男くささすら感じてしまう。けれども、それも悪くない。そんな後ろ姿を眺めながら既にぬるくなりかけているビールの注がれたグラスを煽った。空きっ腹にビールは良くないと言うけれども、手伝いを申し出てみても狭いから邪魔だと一蹴されてしまい、テレビを付けるでもなく扇風機のみを回した部屋の中で手持ち無沙汰な今の状況では黙ってグラスを傾ける以外にやることがないのだから仕方ない。開け放した窓から吹き込む温い風で、桟に取り付けたガラス製の江戸風鈴がちりんと涼やかな音を奏でた。
 そもそも何故、平素この暑い時期には決まって溶けたスライムのようにぐったりとしているさんがキッチンに立つという奇跡が起きているのか。話の起点はおよそ三日前に遡る。


さんって、本当に料理できるんですか?」

 それは、いつもと変わらない、ほんの何気ない会話のきっかけに過ぎないはずだった。唐突に投げかけられた質問の内容に、さんが眉を顰める。
 暑いし作るのが面倒だから、と惰性を露呈して今日も今日とて夏野菜と薬味をぶちまけた素麺を啜るさんに向かってそんなことを訊いたのは、料理はできないんじゃなくてしないだけ、といういかにもな言い訳を使い続けるさんに多少の疑念が生じたからだ。疑っているというよりは純粋な疑問と言ったほうが正しいのかもしれないけれども結局謎に感じていることには変わりない。
 作ってもらっている立場で何様だと言われてしまえばそれまでだけれども、料理ができる、というアバウトな枠組みの中でお互いの思っている料理のレベルに相違はあれど、少なからず俺は乾麺を茹でて野菜を切って乗せたこの素麺を手料理と呼ぶには些か杜撰ではないだろうか、という気持ちになったのは許して欲しい。

「……おまえ、好き嫌いあったっけ」
「え?や、特にないですけど」

 目千両な瞳にじっと見られるのは未だ慣れない。なんとなく居住まいを正すと、問い掛けから箸を動かすのを止めてじっと俺の目を見つめていたさんは、ふうん、と相槌を打った。

「今度の休み、いつ」
「……えーと、三日後スかね」

 脳裏に浮かべたカレンダーの日付を辿ってオフの日を伝えると、わかった、とだけ呟いた頷いたさんはこの話は終わったと言わんばかりに箸の動きを再開させた。すっかり自己完結している。なにがわかったんだ。首を傾げてみてもこれ以上話すつもりもない、そもそもマナーの観点で食事中に会話を弾ませることをあまり好まないさんが言葉を発することはないだろう。なんとなくモヤっとする気持ちを残したまま、俺もまた素麺を啜った。


 ……と、いうのが三日前の話の顛末である。回想終了。
 じゅうじゅうと垂涎ものの音が響くさんの部屋には異例と言っても過言ではない、料理の良い匂いが漂っていた。ぐう、と腹の虫が鳴る。「もうちょいで焼けるから待ってろ」とこちらを一瞥することなくさんが口を開いた。

「……料理できるっていうの、本当だったんですねえ」

 そうして卓袱台に並べられた茹で餃子と焼き餃子、白米、塩茹での枝豆、そして新たに冷蔵庫から取り出してきたビール缶。スタミナ系男メシかつ夏らしい圧巻の食卓に思わず喉が鳴る。
 餃子は春巻きのような俵型ではなくきちんとひだのあるもので、俺が部屋を訪ねてきたときにせこせことさんが手包みしていたものだ。さんの手包み。なんだか卑猥な響きだなと思ったけれども言わぬが花だろうと口には出さないでおいた。皮も既成品ではなくどうやら手作りのようで、相応に気合が入っている。

「ん」
「い、いただきます」

 少し言い方は悪いけれども、まさかさんの部屋でこんなにまともな食事ができるとは思っていなかっただけに戸惑いの気持ちが強い。恐る恐ると焼き餃子に箸を伸ばし、小皿に注がれた醤油を端に付けて齧り付いた。

「……うまかー」
「そうか」

 おいしい。程好く焦げ目のついた皮はぱりっとして香ばしく、反面ひだの周辺はもっちりとしていて、キャベツの甘みとニンニク、ニラの風味が肉汁といっしょくたになって旨味がぐわりと口の中に広がった。豚肉よりも野菜の比率の方が多いのか、それでもごしゃごしゃとした歯ごたえはボリュームがあって満足感がある。がっと白米をかっ込んで、米を飲み込んだあとにビールを煽るとなんとも形容しがたい幸福感で満たされた。ああ、夏だな。と先刻も思った感慨が全身を駆け巡る。
 思わず訛りが出た俺の賛辞にひとつ頷くに留めて、さんは茹で餃子を口に入れた。つられるように手を伸ばした茹で餃子は、焼き餃子の豚肉と違い中身は海老だった。凝っている。もはや町の中華料理屋で出されるものとクオリティは相違ない。性格ゆえか職業柄か、どこか完璧主義のような気は節々に散見されるなと常々思っていたけれどもまさかここまでとは。

「なんか、こんなできるのに勿体なくないですか?いつもやればいいのに」

 ふたり黙々と餃子を食べ尽くして、米の盛られた茶碗も空にして、ビールを煽って、ちまちまと枝豆を齧るさんに新たな疑問が生じる。
 これで料理が下手だったら可愛いな、などと思っていた当初の矮小な考えは木っ端微塵に打ち砕かれた。それどころか普段料理をすることがない割にこの出来はどう控え目に見積もっても、このひとモテるだろうな、という感想しか出てこないのだから困る。料理上手は床上手、という謎の単語が脳裏にぽんと浮かんだけれども、これを言ったら確実に叩き出されるどころか暫く会ってくれなくなるなと思ったので口には出さなかった。

「……ひとりのときにこんなん作ったって仕方ねえだろ」

 中身の無くなった枝豆の鞘を空の茶碗に入れて、さんはじっと俺と目を合わせる。

「自分しかいないのに凝ったの作っても虚しいっつーか、やっぱ、お前みたいに、一緒に食ってくれる奴がいるとやる気も出るっつーか、」

 どこか照れたように目を逸らしてごにょごにょと溢すさんは否応なしにかわいくて、その姿に俺はまるで雷撃を受けたかのような痺れを感じた。うわあ。ぎゅん、と心臓が撓るどころか鷲掴みにされたような心地を覚える。

「結婚してください」
「なに言ってんだおまえ」

 頭沸いたか。どきどきと叩く鼓動に逸る気持ちを乗せて思ったことを今度は飲み込むことなく口に出すと、眉を寄せて怪訝そうな顔をするさんに、そういやこのひと俺に抱かれてんだな、なんて脈略のないことをぼんやりと頭の中で考えた。ああなんか、すごい、どうしようもないくらいにしあわせだ。

「好いとーとよ」

 途端、こそばゆそうに破顔するさんの表情を見て、俺はへらりと自覚を伴うくらい阿呆な顔をして笑う。さんがどんなに俺が吐き出す愛だの恋だのの言葉の諸々を真正面から素直に受け取ってくれずとも、嘘を言うこともなければそもそも愛想というものを嫌うというか、知りもしない彼が俺を恋人と認めるただそれだけで与えられるどんな讃辞にも勝る優越を得ることが出来る。
 ああ、このというひとは、なんて優秀な恋人だろうか。
 愛しさのあまり、俺はますます一辺倒だ。