「あ、どーも鳩子さん、これお土産です」
「……んだこれ」
「葛餅です。エンデヴァーさん好きなんですって」
「……ああ、」
なんだかんだと一悶着あったもののどうにか喋る黒い脳無の一件も片をつけて、病院で療養した後に事務処理等々の手続きを済ませ、手土産を持って鳩子さんの部屋を訪れたのは前回の訪問から実に半月ぶりだった。今までの頻度が高すぎたのだと言われてしまえばそれまでだけれども、こうも期間を空けてしまうと久しぶりの逢瀬に気恥ずかしさが滲む。インターホンで俺の姿を認識した途端にものすごい勢いで開けられた玄関の扉に少し驚きつつも、なんだか随分とひどい顔をしている鳩子さんに心臓の裏側をちくりと刺されるような心地がしたのは、鳩子さんにこんな顔をさせてしまっている原因が紛れもなく俺であることをわかっているからだ。鳩子さんもきっとあの中継報道を見ていただろうから理由なんて容易に思い至る。距離感を測り間違えるような失態をこれ以上重ねたくはないとあんなに留意していたというのにどうにも儘ならない。あくまでも余計な心配を掛けさせないためにと相談していたことも、今となってはどちらかと言わずとも逆効果だったみたいだ。
「あれっ、もしかして葛餅嫌いでした?」
「……や、別に、……、俺はどっちかっつーとわらび餅のが好きだけど」
「なにが違うんです?」
「わらび餅はわらびの根っこから作られてる」
「えっ、あの山菜の?」
「ん」
鳩子さんが言うには、わらび餅を作るにはわらび粉が必要で、先ず冬の寒い時期にわらびの根を掘り起こして、叩いて、ほぐして、冷たい水で何度も洗って取り出したデンプンを乾燥させるとわらび粉が出来るらしい。わらび粉は抗酸化力が強いビタミンEを含んでいて、このビタミンEには活性酸素を抑え体内の不飽和脂肪酸の酸化を防ぐ働きがあるため、生活習慣病の予防に役立つと考えられているそうだ。
一方、葛餅の原料である葛はマメ科蔓性多年草で、わらび粉と同様に根っこを精製し葛粉を作る。葛粉は昔から病人や子どもの滋養食として活躍しているらしく、漢方薬の葛根湯は文字通りだ。葛粉にはイソフラボノイド(ダイゼノン)という成分が多く含まれ、筋肉や血管の緊張を取り、炎症をやわらげ熱を下げる働きがあるらしい。肩凝りやストレスによるイライラや不眠などの症状を改善して、高血圧や狭心症予防にも良いとされているようだ。
「エンデヴァーが葛餅好きだって言うのも、たぶん理にかなってる。あの個性じゃ体内に熱籠もり続けんだろ」
「なるほどー」
なるほどじゃない。いやなるほどではあるのだけれども、こんな後世役に立つかわからない雑学を聞くために鳩子さんを訪ねたわけじゃない。ただそんなことは鳩子さんだって充分に承知しているはずで、きっと鳩子さんが必死に平素通りを装って誤魔化そうとしているのは、先程俺を出迎えた折に憂慮の表情をありありと露呈してしまった自分自身だ。
手土産と称して渡した葛餅を袋ごと冷蔵庫に突っ込んだ鳩子さんは、代わりにペットボトルをふたつ取り出すと無言のまま卓袱台に置き俺の向かいに腰を下ろした。冬場であるせいか外気に晒されても然程結露しないペットボトルを手に取ると氷のようにひんやりと冷たい。ペットボトルのラベルには見慣れたゴシック体ではと麦とレモングラス、と書かれている。寒がりなんだから冬くらい温かい飲み物を摂取すればいいのにと再三口を出しているのだけれども、およそ七年住んでいるにも関わらず鳩子さんの部屋には電気ケトルはあっても急須がない。恐らく朝イチのコーヒーを飲むときくらいにしか役に立っていないであろうティファールの電気ケトルも、今日は未だ使われていないのかコンセントコードが抜かれていた。
「……」
「……」
「……あー……、っと、」
「……怪我とか、なんともねえの」
「……あ、はい。俺のはほぼ掠り傷だったんで」
どう話を切り出したものかと言葉を濁す俺の声色で察したらしい、目を伏せたまま口を開いた鳩子さんの表情は晴れない。俺よりエンデヴァーさんの方がよっぽど重傷で重症だったのだけれども、たぶん言う必要はないだろう。そもそもそんなことを訊きたいわけではないはずだ。
世界は残酷だ。なにもかもが脳裏に描く理想を裏切る。現実ではないから理想なのか、理想を追うから現実に堪え難いのか、ありとあらゆるものものに対してぐるぐると思考を巡らせてしまう癖のある鳩子さんの憂鬱はいつまでも消えない。だから、信用していても信頼していてもどうしたって心配はしてしまうもので、それを失態だとは思わないけれどもそんなみずからを鳩子さんが年甲斐もなく、と考えているであろうことは容易に想像がついてしまう。何年このひとを見てきたと思っているんだ、なんて。本人には言わないけれども。
キャップを緩めたペットボトルに口をつけるでもなくただ握ったままの鳩子さんは頭痛を堪えるときのように眉間に皺を寄せてあからさまに不機嫌な顔をしている。怒っているわけではないけれども明らかに機嫌が傾いでいる。普段からそこまで笑顔でいるわけではないのだけれども鳩子さんはさっきからペットボトルのラベルにプリントされている無印良品の無機質な文字列をじっと睨み付けている。
「あの、なんか言いたいことあるんですよね」
「…………ん」
ペットボトルのラベルに印刷されている無印良品の文字列をじっと見つめながら鳩子さんが小さく頷いた。そして鳩子さんは窺うような視線を俺に向け、どこかかなしさを滲ませた目を細めて唇をそっと引き結んだ。
「……こういうの、ほんとは言いたくねえけど」
「はい」
「やっぱ、なんか、お前が怪我とかすんの、やだなって思って」
指先でペットボトルのラベルに刻まれたミシン目をかりかりと弄びながら鳩子さんが言う。あからさまに言葉足らずなその内容を耳に入れて、噛み砕いて、咀嚼して、そうしてぐわりと圧倒的な速度と質量で胸のうちを占めたのはどうしようもない愛おしさだ。無愛想で口下手な鳩子さんが吐き出す言葉の端々から滲む優しさに、口角が上がってしまいそうになるのをぐっと堪える。
たったそれだけのこと、それならそうと誤魔化そうとせずに言えば良いものを、鳩子さんのことだから俺の思考思想に口を出すのは嫌だとかなんとか余計なことを考えたに違いない。俺にしてみれば心のうちを明かさないままに不機嫌を気取られたほうがよっぽど堪えるのだけれども、みずからに向けられる悪意以外の感情の機微に鈍感な鳩子さんがそれに気付くことはない。
「いや、俺も極力怪我はしないようにしたいですし」
「……わかってる」
「鳩子さんが嫌なら、もっと気を付けます」
「今より?」
「今より」
「……そうか」
どこか安堵したように顔を綻ばせた鳩子さんは、ふと俺の顔を見て困ったように小さく笑った。
「なんか、悪い」
「なんで謝るんですか、鳩子さんなにも悪くないでしょ」
鳩子さんがひっそりと眉を下げて微笑む。その細やかな息遣いを前に、ああ、このひとのことが好きだと思い知る。俺の体内をいっぱいに満たす、湯を沸かすほどの熱い愛は鳩子さんにも伝わるだろうか。
気をつけます、と言ったところでこの先また心配させてしまう場面はきっとあるのだろうけれども、それでも鳩子さんが不安に思うことはない。
なんだかんだ、未だお互いにお互いの距離感を測りかねている。まるで初恋に右往左往する学生同士のような拙さも、鳩子さんとなら煩わしいと思うことなんて微塵もないのだから不思議だ。傍にいてもいなくても、どこにいてもなにをしていても鳩子さんが愛しくて愛しくて仕方がない。これを知り合いに話すと行き過ぎた愛情だと呆れられたりもするけれどもどうしようもない。寝ても醒めても、俺の生活は割となんでも鳩子さんが中心だ。