screamed the Hawk



 あまり物欲がないせいなのか、さんの部屋には家具以外の物が少ない。モデルルームのようだと形容するにはあまりにも杜撰過ぎるかもしれないけれども、おおよそ五年以上住んでいる部屋とは思えない程に生活感のなさはそれに匹敵する。カーテンや掛け布団カバーやラグマットもモノトーンで統一されていて、そもそも唯一並ぶ卓袱台やタンス類の家具ですら家電を除けば無印良品で買ってきたような味気のないものばかりであって、日常生活を送る上で支障が出るようなことがなければ家具等々への頓着はさしてないらしかった。良く言えばシンプル、悪く言えば地味で殺風景。
だから、それだけにこのカラフルな代物は俺の興味を引いた。

さん、これって」
「ルービックキューブだけど」
「いやそりゃわかりますけど」

 物欲のなさが影響してか部屋着兼寝間着と夏冬で一週間分着回せる程度の私服しか入っていない四段程度のこじんまりとしたタンスの上に無造作に置かれたルービックキューブは、まるで京都祇園の町にぽんと現れたマクドナルドのように、白と黒で構成された部屋の中でも一際異彩を放つ原色として存在感を放っていた。手に取ったそれを掲げるようにしてさんを振り返ると、こちらを一瞥すらせずにノートパソコンとにらめっこをしている。基本的に仕事を家に持ち帰らないさんだけれども、今日は珍しく急ぎのデータ作成があるらしく、俺がこの部屋に来てから優に二時間は経っているのだけれどもさんの作業が終わる兆しは見られない。

「なんか珍しいですね、さんがこういうの持ってんの」
「俺のじゃねえし」

 よくよく見ると角がやや潰れていたり塗装面への傷があったり、どうやら結構使い込んでいるものらしく相当愛用していたものなのかと思い問うと、あまり俺にとっては穏やかではない返答が戻ってきた。

さんのじゃないって、じゃあ誰のですか」
「警察学校時代の同期」
「……へー」
「一緒に射撃もやってた」

 そんなことは訊いていない。

「元オリンピック候補選手で、個性使わなくても腕っぷし立つ強い奴だったよ。男勝り、って言うといつも怒られたけど」
「……えっ、女性だったんですか」
「ふつーにしてりゃモテんだろうに、いい男が警察官になるわけない、とかいつも言ってたからまだ独身だろうけど」

 まあ結婚だけが女の幸せとは限らねえからな、なんて。さんの口を塞ぐことが叶わないのならば耳を塞いでしまいたい。
 仕事をしながらで会話に回す思考が疎かになっているのか、今日のさんはいつもよりよく喋る。ついでにこのルービックキューブは貰い物、それも女性からだということがわかって、正直訊かなければよかったと思った。
 さんは知らないかもしれないけれども、俺は案外嫉妬深い。さんのする何気ない世間話のなかに知らない女の存在が出てくるだけで僅かばかり気分を害する。その過日の詳細を知ることは俺には敵わないし想像したくもない。会話の糸口をありふれた日常の海から拾い上げたのは紛れもなく俺であるから申し訳程度の相槌を打って耳に入れてはいるけれども、それも右から左に流れていく、心臓の上に鉛が積るばかりでおもしろいことなんてなにひとつとしてなかった。俺が知らない学生時代のさんを知るその人は、どんな表情のさんと対峙をして、どんな口吻で会話をしていたのだろうか。

「その人のこと、好きだったとか、」
「んなわけねえだろ、誰が好き好んでDV予備軍のアマゾネスと付き合うよ」

 散々な言い分に少しばかり安堵してしまったけれどもそれはごく一時的なものに過ぎなくて、おおよそ安寧には程遠い。出会った頃から女の子の扱いすら心得ているわけでもなければ優しいわけでもなく物言いはどこか乱暴でぶっきらぼうで、それでもさんの中心に近いところへ触れるたびに凛々しさ、正しさを知って惹かれてしまっていたのは事実で、そんな彼の近くにいられることに嬉しさと優越感を感じていたこともまた事実だった。だから、俺と同じように、パトカーの音が止むことなくずっと響いている慌ただしい騒がしさのなか、現場に紛れているさんを見て、ああ、このひとのことが好きだと身を捩る人間が他にいないとは限らない。打算にまみれた思考を隠しもしないでさんに近付く人間が他にいないとは限らない。木々が突風に吹かれて揺れるように、体内をざわざわと音を立てて巡る得体の知れない感情に気付いて鼓動が逸る。

「……なに、おまえ嫉妬してんの」

 いつの間に作業を終えていたのか、それとも集中できなくて断念したのか、ノートパソコンをシャットダウン中の画面の状態でぱたりと閉じたさんはじっと俺を見つめている。眼力が強いからか、笑っているわけでも怒っているわけでも怠そうにしているわけでもない無表情のさんは本人に自覚こそないけれどもそれなりの威圧感があって、思わず怯んでしまった。

「……、もし俺が、さんを独り占めしたいって、言ったらどうします」

 それは謂わば決死の告白だった。俺は恋をしている自分を恥ずかしいだなんて思ったことはただの一度もない。上手な駆け引きの仕方なんて知らない俺の気持ちは最初からだだ漏れだった。恥ずかしくても、ばかげていても、それでも良かった。たださんのことが好きで、欲しくて、堪らなかった。あからさまでも、不慣れでも、俺は俺を上出来だと思っていて、さんが選んだ俺は確かに上出来だったのだ。けれども、だからこそ、怖くなった。今の俺をぐるぐると積乱雲のように囲んで渦を巻く嫉妬の感情は、もしかしたらみっともない以外の何者でもないんじゃないか、なんて。

「……おまえさあ、今更そういうこと言う?」

 ちいさくため息を吐いて、さんはどこか呆れたように目を細める。対して俺はずきずきと痛む胸と心臓をこの身体から取り出してしまいたくて、いっそのことこの場から逃げ出してしまいたくて仕方なかった。

「おまえタイムマシーンでも探してんの?」
「、は」
「おまえが、おまえが知らない今までの俺にどんな付加価値つけてるかは知らねえけど、少なくとも俺は、これからの俺の時間は全部おまえにやるつもりだったけど、ちがうの?」

 いらねえの?と、まるでそれが当たり前であって然るべき事実であるかのように、瞳に純粋な疑問を滲ませてさんが首を傾げるものだから、ひゅ、と息を呑む。ごとん、とルービックキューブが俺の手をすり抜け、離れて、床にダイブして、妙に痛そうな音を立てた。

「い、いります」
「だろうな」
「……さん、」
「んだよ」
「好きです」
「……知ってる」

 卓袱台に頬杖をついてすこし照れたように、けれども満足気に笑うさんの姿を見下ろして、不覚にも目頭が熱くなってしまった。
 近づいて伸ばした腕をするりと背中に回して抱き締めて首筋に擦り寄っても、普段べたべたと触れ合うことをあまり好んでいないはずのさんはなにも言わない。それどころか俺の髪の毛をわしわしと撫でて、息を潜めて笑うものだから、俺は息を詰まらせて、貪色たる声音でさんの名前を確かめるようにゆっくりと呼んでから、大事にします、と妙に仰々しい口吻で宣言した。喉の奥から絞り出した声は震えていた。次いで吐き出す呼吸そのものが震える。ん、とさんが相槌を打つのが耳に届いて、いよいよ目頭に籠もる熱は液体となってぼろりと零れ落ちた。

 もう、さんを見つけることができなかった俺が知らない歳月に悩むことはない。タイムマシーンは終ぞ見つけることができなかったけれども、もう俺には必要ない。
 結局、ありとあらゆる面で俺は彼に歯が立たない。