「おまえ、悩みとかあんの」
いやだいやだと拒絶を示すさんをどうにか宥めて説得して男二人でぎゅうぎゅうと狭い浴槽に収まっていれば、露骨に不服そうな表情で唐突に口を開いたさんの問いかけは文字通り突拍子のないものだった。なんですかいきなりと素直に零せば案の定俺には悩みがなさそうだとさんはあんまりな見解を口にする。換気扇をあまり好まないさんのために換気扇を回していない浴室内にはもくもくと白い湯気が漂っていて、それが風切やら初列雨覆やら大雨覆やらの余計な羽根を極力減らして殆ど小翼角羽と小雨覆だけになった翼にも肌にもぺたぺたと張りつくようで些か鬱陶しいけれども、膝の間に座るさんの背中が胸板に密着していることを思えば翼や肌の不快感など別段どうと言うこともない。
「っはは、ひとつやふたつはあるんですけど」
「ひとつめは?」
「んー、どうしたら好きな人にもっとうまく好きって伝わるか、とか」
「……え、なに、俺?」
「はい」
「……ふたつめは」
「どうやって好きな人を笑わせよう、とか」
「……俺?」
「はい」
「……んだよ、それ」
耳をすこし赤くしてあからさまに照れた様子のさんが語気の強い声を出すたびに浴室内の空気が震えて、俺の脚の間に収まったさんが身を捩るたびに浴槽に張ったお湯がゆらゆらと揺らめいて跳ねて、浴槽からあぶれたお湯がばしゃりと音を立てて浴室の床に零れて排水溝に吸い込まれていく。大人しくしてくださいとばかりにさんの腰に腕を回してぎゅっと抱きしめて肩に鼻先を押しつければ途端に大人しくなったさんが微かに身を強張らせるものだから思わず笑ってしまった。出会ってから何年も経って、何回もからだを重ねて、互いの肌のにおいに慣れきって、ありとあらゆる構成を知り尽くしているというのにさんはいつまで経っても変なところで恥じらう。目の前に晒された、ぺたりと襟足が張り付いている白いうなじに噛みついてしまおうかと思ったけれども、きっと怒られるだけでは済まなくなってしまうからやめておく。
水分を含んで幾分か重くなっているような気がするまつげを疎ましく思いながら目を開けば霧がかった視界に月白色のお湯がさんの肌を撫でるように揺れているのが見えた。たったそれだけのことに、ああ、幸せだ、なんて口角が釣りあがってしまうから悩みなどなさそうだと言われてしまう素振りながらに俺は毎日悩んでいる。どうやってこの愛をこの人ひとりに知らしめようか。どうやってこの人ひとりを笑わせようか。
「……俺も、悩んでることあるわ」
「なんです?」
「俺の人生、本当におまえに預けていいのかとか」
自らの下唇を親指でぐにぐにと押しながらさんが零した。小さな声だったけれども換気扇の回らない浴室にそれは存外おおきく響いて、思わず動揺露わに肩が揺れてしまった。変なところで恥じらうさんは、変なところで脈絡もなく突然俺を地獄の底へ突き落す。俺がさんを愛していることは、つまり、さんの無限の可能性を奪うことと同等であるということになんかとっくのとうに気付いている。それでも、今更この手を離すことなどしたくはないのが本音だった。
「ひどいなあ」
「あ、ちげえよ、そうじゃなくて」
「なにがちがうんですか。ひどいなあ。傷付いたんですけど」
さんの腰をぎゅっと抱いて細い肩に額を預けて不貞腐れたように言えば、あからさまに慌てたような声を出したさんが身を捩った。その声により一層卑屈な気分にさせられて、厭味のように両腕に力を込めてさんを抱いた。するとさんは僅か躊躇うような素振りを見せたものの、おずおずと俺のあたまに手を乗せると、わしわしと些か強めに撫でて小さく声を漏らして笑った。笑いごとじゃない。けれど、彼の掌は心地良い。
「おまえの人生も、俺なんかが預かっちゃっていいのか、とかさ、考えるわけよ。おまえはヒーローだろ」
声色が暗くなってしまわないようにだろうか、明るくなるように努めた声でさんが零した。くぐもった空気を揺らしたその声に、ああ、またか、と内心呆れてしまう。さんはいつもこうだ。22歳と25歳では年齢など大して変わらないというのに、年上の大人ぶって俺の年齢と俺の世間体ばかりを気にしては、未来と前途あるヒーローなんだから俺なんかよりももっと良い人はいくらでもいるだろう、と暗に示してくる。さんを選んだのは他でもなく誰でもない俺自身だというのに、さんには未だにその自覚と自信が希薄なようだった。ちゃんとしたお付き合いを始めるまでの過程が世間一般的な“普通”の尺度から些か外れていたせいか、余計にそういった部分を気にしてしまうみたいだ。そこに関しては耐え性のない俺が全面的に悪かったと思わざるを得ないけれども、さんの自己評価の低さも大いに問題だ、と指摘こそせずとも俺は常々思っている。
「そんなしょうもないこと、考えなくたっていいんですよ」
普通という個々人の見解に依存する尺度から外れて、俺と狭い浴槽に収まっているさんに申し訳ないことをしていると思うこともある。けれどそんなことはどうでも良い。俺の尽きない悩みはそんなことではない。悩んでいるのはどうやってこの愛をこの人ひとりに知らしめようか、どうやってこの人ひとりを笑わせようか。贅沢な悩みに溺れる毎日を愛で満たすための正攻法だ。
「ほんと、かわいい」
「……は、俺?」
「他に誰がいるんですか」
微かに首を捻って俺と目を合わせたさんが僅かに頬を染めて羞恥を隠すように眉間にシワを寄せるけれども、次の瞬間には困ったように眉を下げてへらりと破顔した。霧がかっているように見える浴室のなかにあってもさんの可憐さはよく見える。機嫌を取るためだけのような些細な褒め言葉にだってさんは幸福を噛み締めるようにひっそりと微笑む。だから、この生活のために今日も悩む。
「のぼせそうだ」
そんなさんの呟きが、回らない換気扇に吸い込まれていった。