homoiothermic



「あつい」

 ぽつり、汗の滲む首筋を掌で雑に拭って、ぐったりと卓袱台に顔を押し付けているさんが掠れた声で力無く呟いた。8月の終わり、クーラーの壊れた部屋は死んでしまうのではないかと本気で懸念するほどに蒸し暑い。せめてもの慰みにと開け放った窓だったけれども、その窓からは涼しい風どころか生温い空気が無遠慮に入り込んでくるだけだった。
 基礎体温がヒトより高いさんにとって、夏の暑さは暴力だ。往々にして発汗機能がない鳥類の個性を有しているから身体に熱が籠もりやすい。本来鳥の体温が高いのは新陳代謝を促進させて、空を飛ぶという激しい運動に伴う大きなエネルギーを得るためであるのだけれども、俺と違って生憎と飛行するすべを持たないさんは体温を調節する方法が限られている。だからこの季節になると決まってさんの部屋にある冷蔵庫の冷凍室には箱買いされたアイスがぎゅうぎゅう詰めになっていて、あとは大体トマトやらきゅうりやら体温を下げる効果の高い食材が殆どだ。食欲はあるけれども暑いし作るのがだるいと宣うさんの夏場の食事は大体がトマトときゅうり、それから大葉とツナ缶をぶちまけたそうめんになる。

「業者、いつ来るって言ってました?」
「……あさって」
「ありゃ、突貫ですけど扇風機でも買いに行きます?」
「……きょうのそうめん、みかんがいい」

 冷凍庫でシャーベット状になるまで凍らせておいたペットボトルのアクエリアスを卓袱台に臥せったままのさんの頬に当てると、「んあー……」と湯船に浸かった親父のテンプレみたいに気持ちよさげな声を出したのを聞いて苦笑する。そして会話になっていない。ペットボトルを首筋に当てて冷やしながら言う、さんの言葉が全てひらがなに聞こえる。今年は猛暑であるとニュースで見てある程度の覚悟はしていたものの、やはり相当に参っているらしかった。

「みかんの缶詰、ありましたっけ?」
「れいぞうこにある、はず、たぶん」

 もはや思考の言語化すらも危うい程に参っている。もし普段のそれなりにきびきびとした姿しか見ていないさんの同僚がこの状態を見たらきっと驚愕するに違いない。いや、そもそも仕事とプライベートを切り離したがるうえに社会人にとって付き合いの場である飲み会にすら参加したがらないさんがこんな無防備な姿を同僚に見せるはずもないのだけれども。
 だから、そう、これはきっと、俺だけが見ることを許されている。そう考えるとぐったりと力無く丸まる背中も、長く伸ばした襟足が汗でぺたりとはりついている首筋も、情事中のそれを彷彿とさせて、むらりと頭をもたげた欲に思わずぐっと生唾を飲む。夏の獣は相当に、獰猛だ。

「……いや、缶詰ないんですけど」

 それでもどうせ今のさんに行為を提案したところで冷たく突っぱねられるのは目に見えている。お互いに体温の高いもの同士がクーラーの壊れた部屋で性行為に励むだなんて自殺行為もいいとこだ。頭を冷やそうと台所に向かいコップ一杯分の水を飲む。部屋の壁に掛けられた時計を見ると十二時半といい時間であった。そろそろお昼でも作るか、と台所下の戸棚からそうめんの乾麺を取り出して、次いで冷蔵庫を開けてみたけれどもさんがご所望のみかんの缶詰はどこにも見当たらなかった。それどころか視界に入るものはポン酢やら中濃ソースやらチューブのわさびやら柚子胡椒やらの調味料ばかりで、食料らしい食料すらない。缶詰のみかんがあったというのはいつの記憶だろうか、ここ最近休日はずっとぐでりと溶けたように無気力を極めているさんが自発的に冷蔵庫から缶詰を取り出して食べたとは考えづらい。そもそも、彼が自分から動いてなにかを口にすることができているのなら俺が今ここにいる必要性は全くないのだから答えはほぼわかりきっているようなものだった。思わず呆れてしまう。普段のしっかりきっちりした様子が跡形も残っていない程のぽんこつっぷりだ。

さーん、みかんないんですけど」

 冷蔵庫の扉を閉めながら声を投げかけてみたけれども返事がない。まさか、と思い依然卓袱台に顔を押し付けたまま微動だにしないさんの顔を覗き込むと、目を瞑って規則的な呼吸音。ただのしかばねのようだ。……ではなく、案の定というかなんというか、どうやら寝ているらしい。この暑さで居眠りするのはなかなかつらいんじゃなかろうか、起こしたほうがいいのでは、と肩に触れようと伸ばした腕をふと留めた。
 伏せられた瞼が呼吸に伴って震える。体温を少しでも発散させようとしているのか、口が僅かに開いていて、赤い舌がちらりと覗いているのが見えた。それがどうにも誘っているように見えてしまって、先程鎮静させたばかりの欲がまたひっそりと顔を出す。けれども俺は好きなひとが俺の目の前で無防備にしているときに我慢なんてできる性分ではなくて、だから衝動のままに身体を屈めて眠るさんに口付けた。もしかしたら童話のように目を覚ますかもしれないだなんて淡い期待は裏切られて、余程睡魔に侵されているのか唇を奪われたにも関わらずさんが覚醒する気配はない。
 さんが俺を誘っているだなんて錯覚が俺の都合の良い解釈による認識に過ぎないことはわかっているというのに、彼が眠っているのをいいことにこんなことをして、ああ、はしたない、なんて思ってしまうのだけれどもそれ以上に愛しくて愛しくてもうそれ以外になにも考えられない。ただ、偽りを寄せ付けない、飾りも必要としない誰の目にも明らかな愛だけがここにある。

 だから、もう一度身を屈めて唇を寄せた。
 とりあえずはこのキスに、おびただしいほどのこの思いのすべてを込める。