flutter the dovecotes



「……脳無だあ?」
「はい」

 怪訝そうに顔を顰めるさんの言葉に頷くと、さんは殊更矯正な顔をめいっぱいに歪めた。苦虫を百匹くらい一度に噛み潰したような顔だ。確かにその表情も否定はできない。出張先で偶然耳に入れた不穏な噂について、勤務地域が違うから今のうちに訊いておこうと思って話を切り出したものの、完全プライベートの時に話す内容ではなかったことは明白だった。特にさんは仕事とプライベートをきっちり切り離しているタイプで、家に仕事の類を持ち帰ることを好んでいない。失敗したな、と脳裏でうっすら考える。

「脳無っつったら、あれだろ、USJと保須と神野の」
「それです、ていうか覚えてたんですね」
「……ばかにしてんのか」

 いいえとんでもない。眉間に皺を刻み込むさんに否定を込めて微笑みをひとつ、彼はそれをふてたような顔で受け取って、それから頬杖をついて持っていたボールペンで机をこつこつと叩く。考え事をしているときのさんの癖だ。口は悪けれども、それでも話に付き合ってくれるあたり、なんだかんだで優しい人なのだ。それでも不機嫌面のまま悪態をつくことは忘れないあたり、なんというか、さんらしいなと思ってしまう。そして記憶力のいい彼に向かって覚えてたんですね、とは確かに愚問であった。

「……神野で全回収したはずの脳無は他に保管場所か製造所があって、その場所はオール・フォー・ワン、あるいはオール・フォー・ワンと死柄木しか知らなかった?隠し玉にしていた?」

 机の隅に置いていたコピー用紙の束から一枚引き抜くと、ぶつぶつと口を動かしながら用紙にペンを走らせる。身を乗り出して紙に書かれた文字に目を走らせてみたけれども、ミミズがのたくったような速記で書かれていて内容はまったく読み取れなかった。速記とは速記文字や速記符号とよばれる特殊な記号を用いて言葉を簡単な符号にして人の発言などを書き記す方法をいい、主に議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで利用されている。ていうかこのひと警察だろ、なんで速記なんてできるんだ。

「脳無はあれで全部で、どっかの誰かが
ホラ吹いたって線は?」
「火のないところに煙は立たない」

 ばっさり、にべもなく。まさに一刀両断だった。

「確かに噂は伝播が早い、それが不安を煽るものであるなら尚更な。そして脳無の存在と驚異はヒーローや警察に留まらず今や誰もが知っている。雄英関係者、保須、神野の現場にいたものなら殊更に」
「でも、それなら噂の線だって」
「もし『噂でした』とこちらが発表して慢心や油断を誘うことが目的だとしたら?」

 一瞬、なにを言っているのか理解ができなかった。さんはこちらを一瞥もせず、ひたすら紙にペンを走らせている。

「例えば、今世の中で一番強いヒーローを脳無がころ……、倒しでもしたらどうなると思う?」
「……そりゃ、大変なことになりますね」

 殺しでもしたら、と言わなかったのはさんなりの配慮だったのかもしれない。それでも、その「例えば」は背筋を凍らせるのには十二分すぎる考えだった。

「今までの脳無にそこまで厄介なやつはいなかったと思いますけど」
「わかんねえだろ、ロボットだって人工知能で思考能力を持つ時代なんだから」

 確かにさんの考えには一理ある。
 もし、複数個性を持ちつつも思考能力は持っていなかった従来の脳無が試作品のような扱いだとしたら、と考えて、それではまるで今まで世に放たれた脳無らも脳無を倒してきたヒーローも、新たな脳無を製造するデータサンプル採取のための道具に過ぎなかったというのだろうかと思ってしまう。まさか、オール・フォー・ワンは、ここまでの顛末まで全て予見していたとでも言うのだろうか。

「“ナンバーワンヒーロー”を倒した脳無を、他のヒーローが倒せると思うか?」
「ビルボード・チャートはあくまで統計であって」
「ちげえわばか、統計がどうとか順位がどうとかじゃなくて世論の話だ」

 相変わらず口は悪いけれども言っていることは尤もだった。
 世論。輿論。世間一般の人々の議論・意見。世間の大勢を制している意見。
 神野の事件の折に、中継を見ていた人々の声を思い出す。「あんたが勝てなきゃ、あんなの誰が勝てんだよ」。それはオールマイトに向けた言葉であったけれども、あの言葉は市民の本音で、憂慮で、最もおそれていることだ。絶対に倒れない平和の象徴がいない今、ありとあらゆるものものが不安定な状況下で、それだけは一番遠ざけたいことだった。

「敵連合がどこまで考えてんのかは知らねえけど、少なくともただ不安を煽ることだけが目的ならその手段は脳無じゃなくたって良いはずなんだよ。それはたぶん死柄木だって保須のときにわかってんだろ」

 保須事件の際にも脳無は街に放たれたけれども、確かにその話題のほとんどはステインに喰われている。でも、そう、だからといって今回もそうなるとは限らない。現に噂はあちこちに流れ始めている。

「俺がもし敵なら、真っ先にナンバーワンヒーローを襲うね」
「じゃあ、もし本当に脳無が存在するとして、“決行の日”があるとすれば」
「ビルボード・チャートJPの発表後だろうな」

 かち、と頭をノックしてペン先を仕舞ったボールペンを机に放り投げ、さんはぐっと背伸びをした。ぐちゃぐちゃとミミズがのたくっているような速記文字が書き連ねられた紙の一番下には通常の文字で「標的≒Endeavor」と書かれている。

「警戒はするに越したことはないと思う。手間だとは思うけど一通り全国的に調査はした方が良い。おまえそういうの得意だべ」

 やっと紙面ではなく俺を見たさんの目は冷え切っていて、その温度が俺に自身に向けられているものではないとわかっているけれども、背筋が少しひやりとする。

「俺もできることはやる」
「……なんか、珍しいですねさん」
「なにが」
「そんなにやる気っていうか、協力的なのが」
「おまえは俺のことなんだと思ってんだよしばくぞ」

 別に悪口ではない。今までが非協力的だったと言うわけでは決してないのだけれども、活動区域が違うために普段さんが仕事をしているところを殆ど見ないせいか、冷静に状況分析を行うさんの集中力は、まるでメソッド演技を行う役者のようで、その姿はどこか新鮮味を帯びていた。
もしさんもヒーローだったなら、という叶いもしない「もしも」が脳裏を過って、振り払うように軽く頭を振る。

「“ヒーローが暇を持て余す世の中”、……俺は、一応おまえのことも推してんだよ」

 先程までの冷たさは鳴りを潜めて、どこか眩しそうにほんの少し目を細めたさんの表情が滅多に見られることのないやわらかいものだったものだから、思わず呼吸が止まって、心臓が撓るような感覚に陥る。
 そしてその口から零れ落ちた言葉には覚えがある、なにせ俺がずっと目指しているものだ。
机に乗せていた俺の腕にそっと手を乗せてさんが薄く笑う。その表情と腕に触れた温度にぞくりと粟だった背筋が聞いたことのない悲鳴を上げて、心臓がばかになったみたいにどくどくと喉元で脈打つけれどもさんがその事実に触れることはない。

 さんは、俺がどうしてヒーローが暇を持て余す世の中にしたいと思っているのかも、俺がどれだけさんに焦がれているかも、きっとわかっていない。いまだかつてないほど酩酊しているというのにそれを示す術がないというのはなかなかに心苦しい。人の気も知らないで、とよっぽど言ってしまおうかと思ったけれども、それも結局は飲み込んでしまった。
 やっぱりこの人には、どうしたってかなわない。