Dovecote



「……おまえさ、もうここ来んのやめたら」

 いつか言われることだろうとは思っていた、わかっていたつもりだった。けれどもそれはわかった気になっていただけに過ぎなくて、本当はなにひとつとして理解してはいなかった。生活をうまく過ごしていくために優先順位を割り振って、さんざんほったらかしにしたくせに今になって焦って関係の修復を試みてなんて醜い手口だろうかと自分自身にうんざりしてしまうけれども気付いたことは抗いようもなく事実だった。

「なんでですか」

 発声が震えた。沈痛な面持ちだったさんが怪訝そうな表情で俺を見る。自らがものすごく変な顔をしているような気がして、けれどもそれを確認する術を持たずに俺は意味もなく頬を掻いた。背中にいやな汗をかいている。どこぞの初対面の人間とトークをする番組でもテレビがついてきているわけでもない完全にオフの状態だというのに、奇妙な緊張感と部屋に降り積もった静寂さに耳鳴りがしそうになってしまって俺は米神をぎゅっと片手で抑えた。唾を飲む音が骨を伝って鼓膜に響く。実に重い沈黙だ。

「雁がたてば鳩もたつ、って言うだろ。おまえに俺は不相応だよ」
「そんなの、犬も朋輩、鷹も朋輩でしょ」
「欲の熊鷹、股裂くるとも言うし」

 さんの精悍な顔立ちに露呈してしまう誠実さ、潜めた呼吸が肺へと逆流してしまうのを感じる。

さん」
「なん、」

 欲しいと思ったものは手に入れる、ずるいことをしても、どんな手を使ってでも。小さい頃から何に対してもやってきたことだというのに、その対象が人間になった途端に罪悪感を感じている自分に驚いた。そして自分は呆れてしまうくらい臆病者だな、とも思った。
 言いかけたさんの言葉を遮るように、みずからのそれで唇を塞ぐ。顔を寄せるために掴んだ肩をぐっと押すと、思っていたよりも簡単に身体は傾いだ。

さん、知ってるでしょ。俺は欲しいと思ったら我慢できないし、探り合いとか駆け引きとか、まだるっこしいのは苦手なんですよ」

 初めてさんと会ったときに交わしたはじめの一瞥に含まれた閃光に従ってしまった。今のところは俺もさんもだらだら続いている奇妙な関係の核心に触れることを頑なに避けている。だから、俺たちには進展も後退もない。友達以上恋人未満という甘酸っぱい関係性に胸が撓る年頃をとうに過ぎてそういう状況に陥るだなんてばかげているとしか言いようがないけれども、俺に決断を迫ることのないさんの寛容さに甘えきって俺はいつまでも同じことを繰り返している。俺はさんの胸のうちに気付いているし、きっとさんもまた俺の胸のうちに気付いている。胸のうちにつかえているもの、それらを単純に吐き出すことができない状況、状態、臆病、言い訳、すべてを把握しながら二人して口を噤んでいる様子は中々に滑稽だ。そもそも今更好きだなんて無粋な告白をしなくとも賢いさんはとうに気付いているに違いないから言ってしまえば俺と彼は共犯者だ。明け透けの秘密を抱えて、年甲斐のない恋をしている。

「俺のものになってください、さん」

 俺の決死の告白にさんが目を見開いた。さんは首を縦に振るだろうか。わからない。
 次の瞬間には、さんは声も出さずに泣いていた。ずっと我慢していたのか、両目からぼたぼたとおびただしいほどの涙を流して、唇を噛んで、拳をわなわなと震わせて泣いていた。

「えっ、あ、なん」
「そんなら」

 目元を片腕で覆い隠したさんが零した。

「俺のこと、好きって言えよ、ばか」

 悪態を吐きつつも期待させるようなひどい言葉、精悍な横顔を俺に見せつける。そうして俺は嬉しいやら悲しいやらさんが愛しいやらかっこいいやら憎らしいやら愛しいやらでなんだかよく判らない気分になって思い知る。思い知る、呼吸の重要性、どうしようもなく生きていること、どうしようもなく、さんを好きなこと。

さん、すきです」
「……、そう」

 息を吸うと渇いた肺がひりひりと痛む。
 観覧車が人々を乗せて回るみたいに悠長に縮めてきたさんとの距離は、たぶん、今や限りなくゼロに近い。もうさんの未来を盗む準備は万端だ。彗星みたいな圧倒的速度で距離をつめて、彼の全てをさらおうか。