※本誌No.184以降ネタバレ有

Capsicum



 きらきらと眩しさが閉じた瞼の向こう側でちらついて、ああ朝か、なんてぼんやり思いながらゆるゆると目を開ける。いつもならぴっちりと閉めているはずのカーテンがほんの数ミリ開いていて、その隙間から差し込む光は鈍色だった。窓越しにでもゲオスミンの独特な匂いは鼻をついて、さあさあと水の流れる音も薄らと聞こえる。どうやら、雨が降っているらしい。
 のそりと身体を起こして1Kの狭苦しい部屋を見渡してみても、人の気配は俺以外に見当たらない。それどころか昨日まで隣にあったはずの体温までもが既に消え失せていて、ひんやりとした布団に指を這わす。

「……立つ鳥跡を濁さず、ってか」

 案の定、気配も、体温も、匂いも、羽根はおろか髪の毛一本すらも残ってはいなかった。おおかた、起きて身支度を整えたあとにコロコロでも掛けていったんだろう。毎度のことながら全く用意周到と言うんだか抜け目ないと言うんだか、さすが“速すぎる男”は違うな、なんて。いっそ笑い飛ばしてしまいたいのにそれをできないのは、俺にまだ気持ちが残っているからだろうか。

「なにが、欲しいと思ったら我慢できない、だよ、ばかやろう」

 こういうの、男同士でもセフレって言うのかな。深く、重い溜息を吐きながら、指を這わせるに留めていた布団をぐっと握り締める。皺が寄ってぐしゃりと歪むシーツを見ていられなくて前髪を掴んだ。低気圧のせいだろう、目の奥と頭がずきずきと痛む。灰色の空から降り続けている雨脚は強まるだろうか、視界を奪うまでになるだろうか、視界と聴覚を奪うそれがどうせなら意識も消し去ってしまえば、いい。
 ここまで徹底的に痕跡を消し去って行くというのなら、昨晩感じた熱も視線も痛みも、俺の心に燻った感情も記憶もありとあらゆる何もかも一緒に連れ去っていって欲しかった。けれどもそうして行かないのは、きっと俺に忘れさせないため。自分は他人に縛られることを極端に嫌うくせして、俺のことは逃げ出してしまわないようにと鳥籠に閉じ込めている。籠の扉は開いているのに俺がそこから外に出ないのは、出たくないからではなく足が鎖に繋がれているからだ。選択肢を与えているように見せかけて、逃げ場なんて残されていない。
 俺が本当に鳥頭ならどんなに良かったことか。あるいは、前向性健忘症であれば。仕事をするなかではこの上なく便利で有用性の高い性質だと思っていたというのに、こういうときばかりは、人の顔を覚えるのが得意な自分の能力が恨めしい。穏健だとか慎重だとか、個性のせいか得てして言われることの多い言葉だけれども俺自身は決してそんなことはなく、実際はただの臆病者だ。
 わかっている。俺が勝手に信用して信頼して期待して、勝手に裏切られた気持ちになっているだけだ。あいつ自身にはなんの非もない。あいつに抱いていた絶対的な信頼がどこから生じたかと言えば、明確な理由はない。出会った瞬間から今まで、理由のない信頼を寄せ、理由もなく愛していた。ともすればこれは一方的な認識で、勝手に寄せていたそれが損なわれたからと言って裏切られたと嘆くだなんて論点がずれている。
ごろりと布団の上に大の字で寝っ転がった。今日は久しぶりのオフだから外に映画でも観に行こうかと思っていたけれども、すっかり気が削がれてしまった。自棄酒でもしようかと思ったけれども、よくよく考えたら俺は下戸だ。みずからの傷心を慰めるためだけに明日以降を襲う二日酔いのリスクを負いたくはない。なんだかひどく惨めな気持ちになって、こうなってしまえば不貞寝以外の選択肢はなく、クルクルとまるで鳩の鳴き声のように空腹を訴える胃を無視して俺は目を瞑った。


 ピンポン、ピンポピンポーン。
 呼び鈴の音ではっと意識が覚醒して、窓から差し込む橙色の光にどうやら本当に不貞寝をしてしまっていたのだと気づく。いつの間にか、雨は上がっているようだった。

「……はあ、」

 一拍置いて二連打、このテンポでうちの呼び鈴を鳴らすのはあいつだけだ。もはや癖になってしまったため息を吐いて立ち上がる。寝癖がついてくしゃくしゃになった髪を申し訳程度に撫で付けながら玄関に足を向けた。うわ、この靴下おはようになってんだけど。ますます惨めな気持ちになった。

「おまえさあ、」
「あれ、まさかずっと寝てたんですか」
「うるせえよ」

 扉を開けた先にいたのは案の定今をときめくウィングヒーロー、ホークスだった。わざわざ着替えてきたのだろうか、ヒロコスでこそないけれども、大きな翼は非常に目立つ。さっさと入れ、と無言で部屋に招き入れて玄関の鍵を閉めた。一人で使うにはやや大きい、クイーンサイズ相当の布団は畳まずに広げたままだけれども、どうせこいつは今日も泊まっていくつもりなのだ、さして問題はないだろう。がさがさとビニール袋の擦れた音がして、たぶんいつもの焼き鳥とビールだろうな、と頭の片隅でうっすら考える。

さん、靴下に穴空いてますけど」
「わかっとるわ、あと下の名前で呼ぶな」

 、という自分の名前が昔から好きじゃなかった。この名前のせいで、初見の相手には大抵女だと思われる。だから口調は多少荒々しいくらいでちょうどいい。そして勘違いを助長させるように容姿も男臭い方ではなく、自分で言うのは少しばかりアレだけれどもどちらかといえば線は細い。鳥類というのは往々にして翼や脚に筋肉が多くて、特に翼を打ち下ろす胸筋や烏口上筋が発達している。けれども鳩というのは元々長距離を飛べる種ではない上に眼の前にいるこいつと違って俺には翼を出して空を飛ぶなんて芸当はできないから、身長はそれなりに伸びたのに相反して、筋肉はつきにくい体質らしかった。こいつこの顔で腹筋バキバキだもんな。初めて見たときはそれはもうビビった記憶がある。

さん晩飯食いました?ヨリトミミドリのテイクアウトしてきたんですけど焼き鳥食います?」
「いらね」

 勝手知ったるとばかりに卓袱台にビニール袋を置いてがさがさと缶ビールとプラスチックトレイに入った焼き鳥を取り出していくのを、敷いたままの布団に座って眺める。いつも思うんだけどこいつ共食いとか考えねえのかな。いや、鷹は肉食猛禽類だからウズラやらマウスも食うんだったか。
 海外では鳩も食用肉にされることがあるからだろうか、種別が違うのはわかっているけれども、俺は高校生になるまで鶏肉なんてとても食べられなかった。

「……おまえさ、もうここ来んのやめたら」

 幼い頃は戦隊ヒーローに憧れていた。人々の危機に掛けつけて、我が身を省みず変身して悪と戦い、時には巨大ロボットに乗りこんで正義を果たす、かっこいいヒーローになりたかった。けれども戦闘に特化しているわけでもない個性を身に宿し平々凡々に成長した俺にはヒーローを目指せるわけでも特撮ドラマめいた機会もあるはずはなく、順調に学生時代を過ぎ、臭気判定士の資格を取得し、地方公務員採用試験に合格して国家III種採用を受け、社会人となってこいつに出会った。ただの顔見知りで終わるはずだった。それなのに俺のなにを気に入ったというのか、ぐいぐいと強い押しで絡んできた挙げ句、一体どこから情報を得たのかマンションの部屋にまで押し掛けて来たときはさすがに警察に連絡でもするべきかと自分も警察だというのに本気で悩んだ。
 それから何度かこうして食事をとりながら話をするようになって、見知った相手には警戒心が緩んでしまう俺の性質を知っていたのか、うっかり過去の諸々を溢してしまったことがある。後悔と憎悪ばかりを引き連れて時に黒々と視界を覆う過去の自分はずるずると引き摺ってゆくしかないのだと以前こいつは言った。我慢が苦手だと言って自分に正直に大胆に生きているこいつはだからなんだと俺の憂鬱を一蹴するけれども、肯定を得ることで一切合財が救われるかと言えばそうそう単純な話でもない。
 正直、惨めな気持ちでいっぱいだった。幼い頃に憧れて憧れて仕方なくて、それでも自分の能力の限界だとか経済力だとか適正の選定だとか、いろんなことを天秤に掛けては落胆して失意して、本当になりたいものを諦めてきた。そのヒーローを、今俺の眼の前にいる奴は生業にしていて、そいつに俺は身体を抱かれている。気配も、体温も、匂いも、羽根はおろか髪の毛一本すらも形としてあるものはなにひとつとして残していかないくせに、決まってカーテンだけはほんの数ミリ開いて行く。まるでパブロフの犬だ。なんて巧妙で狡猾なんだろう。

「なんでですか」
「雁がたてば鳩もたつ、って言うだろ。おまえに俺は不相応だよ」
「そんなの、犬も朋輩、鷹も朋輩でしょ」
「欲の熊鷹、股裂くるとも言うし」

 不毛としか言い様のない応酬だ。

さん」
「なん、」

 なんだよ、と言おうとした口は塞がれた。驚くことに、ホークス自身の唇で。もうなにがなにやら、驚きすぎて逆に冷静になってる気もするけれども、やっぱり頭は混乱していると思う。ぐっと肩を押されて布団に押し倒されて、抵抗することもできずホークスの舌がぬるりと口内に侵入してきた。あ、やべ、どうしよう、こんなキスするの初めてなんだけど。ていうか、こいつ今まで散々身体には触ってきてもキスなんて一回もしたことないくせに、なんでこんなことできんの?

「……はは、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してら」

 は、と熱い吐息を溢したホークスの表情は、いつもの飄々として煽動的で挑発的なそれとは違う、らしくもなくどこか困ったような、すこし余裕のないものだったように思う。

さん、知ってるでしょ。俺は欲しいと思ったら我慢できないし、探り合いとか駆け引きとか、まだるっこしいのは苦手なんですよ」

 混乱し閉じようとする思考をこじ開けるように見下ろして、無垢な笑顔も引っ込めて、お前の目の前にいるのは後輩でも友人でもないただの男なのだと、その鷹の目に欲求をちらつかせて釘を刺すのだ。

「俺、本気ですよ」
「……っ、」
「俺のものになってください、さん」

 常に余裕綽々とでも言いたげに飄々として掴みどころのない雰囲気を纏った男が、本気の顔つきと声色で静かに迫ってくるというだけで、俺はすっかり怖気づいてしまっていた。けれどもそれを意外だとは言えなかった。ヒーローとして働いているときのこいつは、稀に不気味なほど静かに世界を見据えている瞬間がある。虎視眈々と、それこそ捕食する獲物を狙い、平素は巧妙に狡猾に隠している牙や爪を研いでいる鷹のように。そんな奴が、俺を捕まえている。
 そうだ、俺は、こいつを、ホークスを、一度たりとも厭うことはなく「好き」という感情以外で認識した記憶はついぞない。こいつに直接その感情を向けたことこそないけれども、恋愛だろうが親愛だろうが、俺の中にある想いはこの二文字に限定される。

「ねえ、さん」

 そして、俺は気づいてしまう。
 恋に喘ぐこころはもう、ずっとずっと前に食べられていたのだった。