あなたのための色



 昼間中の街を歩くのが好きだった。
 夜の深まったとき、革靴を鳴らし闊歩するコンクリートジャングルも興があると思ったけれど、はやはり穏やかな日光の届く、穏やかに口をつぐんだ街並みが好きだ。その日は晴れだった。
 が散歩に繰り出そうとドアを押し開ける。くくりつけたベルが、チリンと控えめに鳴った。

「夕方から降水確率高いから、傘、持ってけ」

 奥のほうから、爆豪が言う。どうやら夕方のワイドショウを見ているらしい。にとってそういった番組は、アイドル気取りの女性アナウンサーを見てあれがかわいいだとか、こっちのほうがかわいいだとか、意味のない品定めを行う以外に楽しみを見出せないものだ。退屈極まりない茶番である。
 やはり爆豪には変に主婦めいたところがある。そう言うと、彼は自慢のつり目をいからせて、だみ声を大きくする。は彼のそういったところがどうしようもなく面倒で、しかし愛おしいと思うから、なににつけても余計なことは言わないでおくのだ。瀬呂の声が気をつけろよ、と背中に触れる。
 は傘立てから緑色の傘をひとつ抜き取り、酒場を抜け出した。

 五月に入った空はすこしずつ、日没を先延ばしにするようになっている。つい先月までは薄暗い時間帯であったはずの午後四時。きれいに青く晴れていた。テレビのいうとおりほんとうに雨など降るのか、と疑いたくなるような快晴であった。店の前では猫がぽつねんと昼寝をしている。切島が餌付けしている猫だ。確か彼はナントカという名前をつけていた、けれどもそのナントカを覚えていられるほどの興味が、あるわけではない。触れることもなく、至福の表情を浮かべたそれを跨ぐとニャアと鳴いた。
 クラブは高い建物に囲まれた、いつでも薄暗い通りにある。ただこれから三十分か一時間か、こんな晴れた日には、夕日が鮮やかに、赤く射し込んだ。ビルの影が赤く見えるほどに、光を持つ物体が一斉に赤く輝く。そのときばかりは雑多で品のないこの通りも、絵にしてしまいたいほど美しい。クラブを出て左に曲がった。俯き加減に進んでいくと、大通りに近づくにつれて人の足音、話し声、ゆるゆると都会めく空気がを撫でていった。この暗がりからまばゆい世間へ移ろう変化が、はすこし気に入っている。
 アスファルトが立ち上がりはじめて、が坂にさしかかったとき、「ごめんなさい!」コンビニエンスストア脇の路地だろうか、後方でひどく騒がしい物音が響いた。はすこし振り返り、駆けこんでゆく大柄な男たちを見送る。……記憶が確かならばあの路地はとても長く、いくつものビルの間を通っている。あれを抜けた先になにがあるのかは、のもつ興味の範囲ではなかった。傘を引きずらないように気をつけながら、ゆるやかな坂を上っていく。
 今夜は依頼の消化予定もなく、クラブを通常営業させるだけの穏やかな夜だ。オーダーに頭を悩ます必要もない。七人揃って食べる夕食まで二時間弱。お気に入りの映画を観賞するには短く、しかしなにもせずに過ごすのはもったいない、悩ましい暇に戸惑ってしまっただけだった。どこか特定の、行くあてがあったわけではない。明るいうちの街というものに触れることも久しく、あてどなく散策することは、にとって、十分魅力的な余暇の過ごし方に思えた。どこへゆこうか。坂を上る途中で人とすれ違うことはない。と同じように坂を上る人間はひとり、ふたり、彼を追い越していったが、目前の表面上は清らかな社会から、こちら側へ好き好んで下る人間など。

「あんれ、じゃん」

 逆光に白く輝いて、華奢な影がを呼んだ。スンと鼻を啜ると、嗅ぎ慣れた、安物の煙草がにおう。あの赤ん坊とかけぬけた数年前、それから自然と、一日に吸う煙草の本数が減った。薄い唇、何をせずともすこし上がった口の端にひっかかる、毒々しい色彩のロリポップ。「なにしてんの」が笑う。坂のてっぺん、慌ただしい往来を背にしていた。

「散歩。……お前こそなにしてんのこんなとこで」

 は首を傾いだ。白い棒をつまんで目に痛い紫色の飴玉を唇に弄びながら、上鳴が、坂を下る。

「なにしてたとおもう?」
「え、なに。いいよ別に言えんことなら」
「そういうわけじゃないけど」

 彼は涼やかな眉を下げた。すこしだけ、自慢げな声色を作って、

「夕飯までに問題児回収してこいって言われてんだ、バクゴーに」

 どの口が誰を問題児呼ばわりするのか!は腹の中で密かに笑った。問題児にまで問題児と言わしめる男など、リボルバーを携え小柄な身体に大きな目をぎょろつかせる彼しかいない。

「緑谷なら公園だと思う」
「なんで?」
「財布置いてあったし、本屋とかじゃないでしょ。あいつの行動範囲なんてたかが知れてるわ」

 興味があるのかないのかいまいちわからないような、ふうん、とでも言いたげな、そういった気だるげな表情。
 上鳴は「なんでもわかるなあ、」なんて茶化したトーンでロリポップをしゃぶる。ちいさなころからまるで変わらない顔で、けれど彼は、を見下ろしていた。身長はついぞ追いつかれそうになることもなく、こうして彼を見上げることも珍しい。

「なに笑ってんの
「別に」

 あっそ。が首を振ると、上鳴はふたたびに近づいた分だけ、坂を上ってゆく。レザージャケットが徐々に低くなる太陽を照り返して、やはり白く光った。目に染みる白だ、の網膜にいくぶんか刺激を残して、そのせいで彼はすこしのあいだ立ち止まる。

「…………いくか」

 誰に言うでもなく、ただひとりごちた。
 上鳴が上りきった先で右に消えたのを認めて、はスニーカーでアスファルトを踏む。依然として坂を下る者はいない。大通りは徐々に押し寄せる帰宅ラッシュ、人の波はまだまだ穏やかであった。
 左へ折れることにした。
 ランニング姿でこの通りを走り回る切島や、モノトーンのスーツに紛れてツートーンの髪を靡かせ、異様に存在を主張する轟とはちがう。はひどく自然に、現代社会の勤勉な日本人たちに溶け込む。こんなふうに規則を持った場所で働いたこともないのに、どういった皮肉だろうか。国が求める最低限の、もしくはそれ以下の教育をつんで、それからはきっと、この通りですれ違う人間たちがひとつとして体験したことのないような、大変にアウトローな方法で大人になった。それでよかったのだとは思っている。生い立ちからして普通でないのに、十代の半ばから軌道修正など。「ああ、すいません」タクシーを止めた華奢な男と肩がぶつかった。「大丈夫っす」軽く下げられた頭が、つい先ほど目にしたそれと似ていたような気がした。男はスルスルと雑踏をかきわけてゆくし、もまた、あてどなくただアスファルトを踏みしめる。

 しばらく歩くと、見なれた駐車場が左に見切れた。ニャアニャアとやかましい猫の声、ということは、とイコールで繋げるほどに生き物をかわいがる男がひとり、否ふたりほど思い浮かぶ。いやそんなはずはないとがかぶりをふる直前、彼の視界の端には色鮮やかな原色のスキニージーンズが躍った。――爆豪と瀬呂、ふたりを除いて同じような範囲に行動しているとは何事か。「じゃん!」空のゴミ捨て場の奥、よく通る声が響く。行きかう人々が横目でそちらを見やっていった。やめろよ恥ずかしい、と袖を引いたのが髪の目立つ轟。目をキラキラとさせて元気よく、こちらに手を振りまわしているのが、よれたランニング姿の切島だ。

!猫!」

 たまらなくって大通りを外れた。大声で招かれ続けては無視することもできない、無自覚の面倒くささというのが切島には点在している。轟が悪いな、とちいさく謝辞を述べてを見下ろす。「いいよべつに」ゴミ捨て場の隙間に収まりながら、轟はうすくほほえんだ。

「なにしてたの、猫?」
「おう、轟と墓作ってよ。お参りしてたんだ」

 切島が指したのは、塀に立てかけられた小さな板だった。あまりペンをとらない切島の、拙い文字で名前のようなものがいくつか。「卒塔婆?」かがんだが呟く。「そんなもんか」轟が答えて、切島はただ首を傾げている。卒塔婆、などという単語とは無縁に生きているようだった。
 すこし前のことだが、切島は上鳴曰く「喪中」であった。直接世話を焼いて、優しく手を差し伸べることはの得意ではない。それについては切島や緑谷のカバーする範囲で、そして、轟は特になにも言うことはなくそっと誰かに寄り添う。先回もそうであったらしい。切島はここ数週間ですっかり普段の、鬱陶しすぎるくらいの天真爛漫さを取り戻していた。は手助けのできない自分の性質を歯がゆく思っていたけれども、それについて緑谷や轟が彼を責めたことはない。むしろ緑谷のほうが劣等感を抱いていることについては、感情の機微に敏いも、さすがに気づいてはいないのだ。

「何猫なん?」
「すげえかわいい猫!賢くてなあ、」

 落ちはじめた夕日の明るさよりも輝いた表情で、切島は卒塔婆に書かれた猫たちがどれほどに魅力的であったのかを、詩でも紡ぐかのように美しく語った。は目を細めて、轟は聞き飽きたとでもいうように眉根を寄せて、彼の詩文に耳を傾ける。
 優しくて弱いのに彼はひどく強かった。その矛盾が彼の強さであったことを、は知っている。
 切島は涙を落とさなかったし、終始笑う彼につられて、も轟も穏やかに笑っていた。いのちというのは厄介で、重くて、そしてどうすることもできないくらいに悲しくて愛おしいものだ。いくつもいくつもそれを薙ぎ倒した罪悪感は零さず背負って、は立ち上がる。太陽が街にオレンジ色を落としこむ時間だ。
 帰ろうか、と座り込んだままの二人を促すために口を開こうとした途端に、右のポケットで携帯電話が鳴った。半年ぶりほどの名前が表示されている。

「なに、瀬呂」
「緑谷見つかったって」
「へえ、はやいね」
「飯にするから、帰ってこい」

 うん、と返すと、電話の向こうで含み笑いの気配がする。

「なに、切るけど」
「ごちそうだぜ、今日」

 なんで。今日は主役だろうが。瀬呂が笑う奥で、きっと爆豪が快活に笑った。
 ポケットに携帯電話をねじ込むと、ひとつぶ、ふたつぶ、雨がの頬に落ちた。天気予報は嘘をつかないのだ。傘がない傘がないと困り顔の二人を横目に、は緑色の傘を勢いよく開く。瀬呂が愛用している、甘い香水のにおいがした。