好きになったきっかけがなんであったかはわからない。
けれども、無愛想な俺とは違って人当たりの良いあいつの笑顔がどこか陰を含んでいるように見えたあの時から、きっと意識はしていたのだろう。
「へえ、じゃあ子どもたちの心を掌握?するためのテストは合格だったんだ」
「……ああ、最初は散々だったけどな、ゴチンコとか言われるし」
「ゴチンコて!」
ふ、ふふ、と息の漏れる口元を覆ってふるふると肩を震わせるに、笑うなら笑っていいぞ、と言うとは申し訳なさそうに眉尻を下げながらも腹を抱えて引き攣った笑い声を上げた。確かに笑ってもいいとは言ったがこれは笑いすぎだ。けれどもここまで爆笑(と言っていいのかはわからない、他の奴らに比べたら格段に控え目な方だ)しているを見ることは今後そうないだろうと思って咎めはしなかった。
休日の昼間だというのに、寮の共有スペースに俺と以外の人影はない。みんな何かしらの用事があるらしく出払っているか自室に籠もっているかのどちらかだ。
「いいなあ、私もオールマイトとかマイク先生について行ってたら見れたのに。申請すれば行けたかな?」
「やめとけ」
仮免講習を受けていたのは俺だけじゃない。とは些か馬の合わない爆豪もいたし、士傑の生徒もいた。なによりあの場には親父だっていたのだ。が親父に余計なちょっかいを掛けられる可能性はゼロではない。
「……へへ、でも本当、轟くん、入学したばっかりの時に比べて話しやすくなったよ。今のほうがずっと楽しそうだ」
笑いすぎて涙の滲む目元を中指で拭って、そう言いながら嬉しそうにココアを啜るの言葉を、俺は手にしたマグカップの水面に薄らと映る自分の顔を見つめながらそっと反芻してみる。話しやすくなった、楽しそう。入学してきたときには、こんなことを言われるなんて想像もしていなかった。
最初は、ただ親父を見返すためだった。ともすれば親しき仲になるような友人なんて作る必要はないと思っていた。だから推薦入学試験の時も夜嵐のことなんて気にも留めていなかった。それが、体育祭で緑谷に怒られて少し考える余裕ができて、お母さんと話すきっかけになって、親父のヒーローとしての姿も見れるようになって。自分のことだけ、目の前のことだけしか見えていなかった視野がほんの少し広くなって、教室の中がよく見渡せるようになったのだと思う。仮免試験こそ落ちてしまったけれども、入学した時のままの俺だったら、きっと期末試験はクリアできていなかった。
「……俺、さ、あん時、体育祭で緑谷に怒られるまで、心のどっかで楽になりてえって思ってた。消えちまいたくて仕方なかったんだ、ずっと」
小刻みに波紋を起こす黒い水面をぼんやりと見つめながら、俺はまるで告解でもしているような心持でいた。どんな表情をしているかわからないを見られなくなった俺は初めてコーヒーに口をつける。コーヒーは既に冷め始めていた。
「轟くん、自分の個性なのに、まるで“左”のことも敵かなんかみたいに思ってる。自分は味方だよ。だって自分の個性は自分だけのものなんだから」
いつだったか、にそう言われた事がある。ヒーロー基礎学で初めての屋内戦闘訓練、体育祭よりもずっとずっと前のことだ。その時俺は、事情も知らないくせに知ったような口利くんじゃねえよと言った。人との対話を試みることもなく自らの殻に閉じ籠もっていたのは他ならない俺自身だったというのに。俺は俺が決して思考がわかりやすい類の人間ではないことを俯瞰的に自覚しているけれども、あの時からは、俺の目的も真意もなにもかも見抜いていたのだろうか。今なら、全てではないけれどもがそう言った理由も意味もわかる。
「過去があるから今があるって理屈なら、過去の自分を否定することは、今の自分を否定するってことになるでしょ?それはなんとなく、嫌だったから」
お節介だってことは、わかってたんだけど。中身のなくなったマグカップをテーブルに置いて、が沈黙を振り払う。
「あのさ、轟くん。見返すためなら、別にヒーローじゃなくたってよかったはずなんだよ。それでもヒーローになる道を選んだのは他でもなく轟くんの意思で、それって、すごくすごいことなんじゃないかって、私は思うんだよね」
僅かに目を伏せて穏やかな表情でそんなことを言うものだから、俺は思わずそっと息を呑んだ。
確かに、ただ親父を見返す為ならば必ずしもヒーローである必要などなかった。むしろヒーローにならないことで意趣返しをすることも可能だった。選択肢は確かにあったのだ。
お父さんみたいにはなりたくはない、とお母さんの腕の中で嘆いたあの頃からおよそ十年、それでもヒーローという職種を選択したのは紛れもなく、誰でもなく他でもない俺自身の意思だ。結局のところヒーローを目指しているのは親父の思い通りになっているようで些か癪でもあったけれども、憧れちまったもんは仕方ない。それに以前よりはずっと抵抗心も対抗心も薄れている。オールマイトと何を話していたのだろうか、詳しいことはわからないけれども、仮免講習の折に親父もなにかしら心境の変化というものがあったらしい。少なからず、互いに漸く吹っ切れた、ということなのだろう。
「逃げずに戦ってくれて、ヒーローを目指してくれて、ありがとう。そうしなかったら、もしかしたら私たち出会えてなかったかもしれない」
途端にの輪郭がぼやけた。まるで水槽越しに目を合わせているようだとぼんやりと考えていたけれども、どうやらまつげの手前から溢れだした涙がそう錯覚させているらしかった。マグカップの取っ手に掛けた指先は釘を打たれたようにぴくりともしないで、腰をソファに括られたように立ち上がることもできない。
「……なあ、」
「ん?」
「悪い、先に謝っとく」
涙の滲む目元に気づかれないようにそっと俯いて鼻を啜りながら、俺は声が上擦らないように慎重に口を開いた。
俺は俺の事情をに詳しく話した覚えはない。体育祭の緑谷に対しては殆ど特例みたいなもので、価値観の相違はあるにしろ、そもそもこんなに重い内容、ほいほい人に話すようなもんじゃないということは鈍いと言われがちな俺でも流石に承知している。いつか話せるようになれたらいい、とは思っているけれども、今はにそこまで背負わせる気にはなれないのも本当だ。
「好きだ」
それなのにここまで汲み取ってくれているのはひとえにの誠実で篤実な性格に依るもので、俺はのそういうところが好きなのだ、と脳裏が囁く。当人は頻りに人付き合いが不得手であると自らを皮肉るけれども、の場合はどちらかといえば引き際を弁え過ぎているだけだ。物理的にも、心理的にも。が持つ個性の影響もあるのだろうか、こいつは人を傷付けることを極端に嫌う。パーソナルスペースが広いのか、不用意に相手のやわらかいところに土足で踏み入るようなことは絶対にしない。自分の感情を過度に殺してしまうきらいもある。要するには優しすぎて、その姿は俺の目にはひどく不安定に見えた。
「……それ、ともだ」
「友達としての好きじゃねえ。恋愛だ。ゆくゆくは結婚だってする」
この期に及んで誤魔化そうとしているの言葉を遮る。結婚という単語を出すのは少し生き急ぎすぎだろうか、それでも鈍感なに感情を伝えるためには、これが一番効果的であるように思えた。萎縮したように窄めていた肩を下げて、どこか観念したように俯いていた顔をゆっくりと上げて、俺と目を合わせるの瞳は不安に揺れていた。それから、先程までの穏やかさが嘘のように、どこかばつの悪そうな表情をして目を逸らす。そんな表情をさせているのは他でもない俺なのだということはわかりきっているけれども、今更前言を撤回する気には到底ならない。人の口に戸は立てられないものだ。
「……ありがと、轟くん。でも、私、轟くんとは付き合えないよ」
「なんでだ。俺のことが好きじゃねえって理由以外は認めねえぞ」
「……好きじゃない、なんてわけない。好きだよ。友達としてってやつじゃなくて、ちゃんと、恋愛の意味で、轟くんが好き」
お互いとうにわかりきっていることを再確認する作業は不毛だ。それでも、当人の口から直接本心を聞くというのは認識よりもずっとずっと鋭く鮮烈に俺の胸のやわらかいところを突いた。嬉しいことであるはずなのに、こんなにも心臓が甘く痛む。好きだなんてこれまで一度も言ったことのないくせに、なんて巧妙に知恵の回るやつだろうかと悔しくなってしまったけれどもそれを憎いとは思えない。
「ならなんで、」
「轟くん、知ってる?私、子ども産めないんだ。病気とかじゃなくて、個性の影響。私の身体も水銀で形作ってるって前にも言ったと思うけど、個性を全解除したら、形成してる身体の皮膚も骨も臓器も全部水銀になるんだよ。それってさ、どういうことかわかる?もし仮に子どもを身籠ったとしてもさ、個性全解除したら、胎児は死ぬんだよ。……知ってるわけないか、誰にも言ったことないもんね」
今度はが俺の言葉を遮った。どちらかと言えば聞き上手である普段の比較的寡黙な様子からは想像もしていなかったマシンガントーク。嘲笑するかのように言葉を吐き出すその姿は半ば自暴自棄になっているようにも見える。そして語られるその内容は、確かに一度も聞いたことのないものだった。
「……別に、子ども作ることだけが結婚する理由にはならねえだろ」
「産まないことと産めないことは違うよ。やっぱり子ども欲しいかも、って思ったってどうにもならないんだよ」
俺の苦し紛れの言い訳は簡単に一蹴された。論破されたと言ってもいい。普段の恭謙さからはまるっきり正反対の、堅く険しい声色と鋭さだった。
子どもが産めない身体。女としては確かに欠点に成りうるかもしれないけれども、たったそれだけのことで好きな相手を諦められる程、俺は割り切りの良い性格じゃない。それをに伝えるために、いつものやや杜撰な言葉選びになってしまわないように、俺は俺の知り得る語彙から総動員で選び出そうとしている。
「……がなに考えてそう言ってんのかはわかんねえし、お前が抱えてるもん全部吐き出しちまえ、って言えたらどんなにかっこいいんだろうなって思うけど」
「もう言ってるじゃん……」
「少なくとも俺はお前だから好きになったし、個性がどうとか身体機能がどうとか、正直どうでも……よくはねえかもしれねえけど、そういうの、今すぐに結論を出す必要はねえと思う」
結婚なんて単語を出してしまったばかりに、に覚悟を急いてしまった節はある。そこは全面的に俺が悪い。親父と同じようにはなりたくはない、それも確かに俺の本音だ。だからといってすべての結論を急く必要など何一つとしてないし、俺たちは俺たちのペースで歩むことだってできる筈だ。
人一人分あった距離を自ら詰めて、膝に置かれ握り締められていたの手に自分の左手を重ねる。びくり、と怯むような震えが直接掌に伝わって、それでもどうにか安心させてやりたくて、握り潰してしまわないようにと意識しながらぐっと手に力を込めた。目は、逸らさない。
「俺との未来がお前にとっての一番になるかなんてわからねえし、一緒にいることでお前を幸せにできるって確証はないし保障もできねえ。けど、どんな未来でもお前と生きたいとは思う。そんで絶対に、不幸にはさせねえから」
過去は大事だ。過去があるから現在があって、未来がある。けれども“今”は、別に過去だけで構成されているわけじゃない。同じように未来もまた、過去と現在の二つだけで構成されてるわけでもない。
じゃあ一体、現在は過去以外の何で構成されてるっていうのか。未来は過去と現在、それ以外の何で構成されてるっていうのか。それがわかれば苦労はない。それがわからねえから、俺達はこうやって無様に必死に生きてる。きっとその答えは自分自身で探し出すものだ。
は、とが熱い息をつく。
「……いや、正直自信はねえけど、のこと、誰よりも一番好きな自信ならあるんだ」
途端、の誠実で篤実な性質を如実に表した瞳が、絵の具に水を垂らしたように滲んで潤んでいく。色白な肌が髪の朱にまで近いくらいにぶわりと赤く染まっていく過程をまじまじと見て、今の俺は自分の顔も身体もなにもかも、まるで“左”でも使っているんじゃないかと錯覚してしまいそうな程に、きっとに負けないくらいに熱を持って赤くなってしまっていると自覚する。
そうして最後の一撃をの心臓に叩き込むために、自分の耳にまで届く心臓の音を意識の外に追いやって、俺は浅く息を吸う。
「俺と、付き合ってくれ」
ぼろり。の瞳からついに溢れた雫をそっと親指で拭ってやると、はぎゅうと強く目を瞑って、言葉には出さず二回、頷いた。ずず、と鼻を啜る音が耳に届く。
悲しみでも寂しさでもない理由で涙を流すのことが好きだ。それを認めてやっと、俺はかつての俺を救えた気がした。