それは、俺が非番でが出勤という比較的珍しい日の出来事であった。
本人は否定しているけれども冷え症なの帰る時間を見越しリビングの暖房を付け、ついでに夕飯の下ごしらえも済ませてしまおうと冷蔵庫を開けると、発泡トレイで梱包された鰤の切り身を発見したから今日の晩飯はぶり照りにしようと当たりをつけた。作り置き備菜のにんじんしりしりとひじきの煮物は残量がまだ余分にあるのを確認して、冷蔵庫から料理酒とみりんを取り出す。ついでに台所の備え付け戸棚から醤油と小さじを突っ込んだままの砂糖容器も出して計量カップに大さじで投入しざっとかき混ぜた。
個性の影響なのか食に頓着がない故なのか、オブラートに包まない言い方をすると味覚音痴なは基本的に料理をしない。できないというわけではないのだけれども、細かな味付けがわからないのだそうだ。だから同棲を始めた初日から料理の担当は俺になった。代わりに食器洗いや掃除洗濯の負担はが一手に引き受けてくれている。この話を偶然会った上鳴にしたところ、少なくとも高校三年間を同じ学び舎で過ごしの破滅的な味音痴具合を知っている上鳴がやや引き攣った顔で「それが正解だな」と零したことは墓まで持っていくつもりだ。
フライパンにサラダ油を馴染ませながらトレイから鰤の切り身を乗せる。菜箸でつついて焼き色が付いたところでひっくり返し、両面に焼き色がついたことを確認して蒸し焼きにするため蓋をする。鍋に水と顆粒だしを入れて火にかけ、冷蔵庫から事前に石突きを切って保存していたエノキダケを取り出し鍋に放り込んだところで玄関からガチャリとドアノブが音を立て、が帰宅したことを知らせてきた。
高校一年生の初期から思慕を向けていたと漸く付き合うに至ったのは、仮免講習を終えて然程経っていない時期のことだ。既に俺の片想いというわけではないことを確信していたというのに、曖昧なままずるずると引き摺っていた関係に痺れを切らした俺が寮の共有スペースでふたりきりになったタイミングを見計らって告白をした。も勿論恋愛感情に疎いわけではないから両思いであることは察していたようだったけれども、だからといって付き合うことに対しては然程重きを置いておらず態々関係を変化させる必要性を感じていないらしかった。
どちらかと言えば俺もも人との距離感を測ることは決して得意とは言えない。俺は殺伐とした複雑な家庭環境と人間関係への無頓着さがそうさせていたのだけれども、に関しては自身が持つ個性への危険視がそうさせているらしいと気づいたのはさして遅くはなかった。水銀の生成という基本的に人体への有害性を示す影響を与えかねない個性を、本人は両親から受け継いだものだからと割り切りながらもあまり好ましく思っていないことを知ったのは確か高校二年生の頃だったと記憶している。
「焦凍くん、ただいまー」
「ああ、おかえ……、……なんだそれ」
台所から廊下を通して玄関に目を向けると、なにかを両手に抱えたが靴を脱いでいるのが見えた。は履くときに楽なようにとつま先を扉に向けて靴を脱ぐ。脱ぎ捨てるような行儀の悪さはないものの、稀に踵を段差に引っ掛け後ろに転ぶこともあるから気をつけろと常々口を出しているのだけれども本人はあまり気にしていないらしかった。
脱いだ靴を揃えて隅に寄せ、くるりとこちらを向いたの両手に抱えたものを見て、思わず口を吐いて出たのはなんだそれ、だった。
「猫だよ」
「それは見りゃわかる」
靴を脱いだばかりで外套も着たままのが両脇に手を差し入れぶら下げてみせたのは、生まれたてと言っても差し支えのない子猫だった。自らの措かれている状況など理解し得ているはずもない子猫はみゃあ、と小さく鳴き声を漏らす。まだ小さく模様も薄っすらとしか出ていないけれども、黒と銀の混じった毛色と緑の目を持ったサバトラだ。
「どこで拾ってきたんだ、まだ子猫だろ、親は」
「え、拾ったこと前提なの?」
は心外だと言わんばかりに眉を顰めてみせたけれども、恐らく強ち間違ってはいないだろう。
「だって、段ボールの中で震えてたんだよ。今時捨て猫なんて見ると思わないじゃない。お腹だって空いてるだろうし、せめて里親を見つけるまではお世話させてほしいなあ」
唇を僅かに尖らせて、まるで小学生のような口ぶりに思わずため息を吐いてしまう。そんなことだろうと思ったけれども、捨て猫を再度捨ててこいなどという酷なことを俺が言える筈もなかった。聡いのことだ、俺が渋々ながらに了承するであろうことを見越して連れ帰ってきたに違いない。
「……とりあえず飯が先だ、ちょっと待ってろ」
「はーい」
俺の返答にぱっと表情を輝かせたは猫に頬ずりをして「暫くうちでお世話してあげるねー」と話しかけている。その明るい声色を随分久しぶりに聞いた気がして、そもそもここ最近はお互いに多忙を極めていて一緒にゆったり過ごす時間などなかったことを思い出した。
フライパンの火を止め、食器棚から皿を取り出しぶり照りを乗せる。タイミング良く出来上がった味噌汁をお椀によそい、炊飯器を開けて杓文字で天地返しにほぐした米も茶碗によそう。冷蔵庫から常備菜のにんじんしりしりとひじきの煮物を取り出し小鉢に入れすべてをお盆に乗せて台所を出ると、はどこから見つけてきたのか小振りな段ボールの中にタオルを敷き詰め猫を入れていた。
「、飯」
「わ、ありがとう、お手伝いできなくてごめんね」
「いや」
確かに平素であれば皿の準備であったり米や味噌汁をお椀に盛るのはの役目であったけれども、今日は状況が状況だ。まだこの部屋に慣れていない子猫を単独で放置させるのはあまり良くはないだろうというのは、動物を飼ったことのない俺ですら流石にわかる。
「里親、どうしようね。事務所で誰か飼ってくれないか訊いてみようかなあ」
互いに手を合わせ食前の挨拶をして、が白米を口に運びながらぽつりと口を開く。すっかり里親募集をすることしか頭にないらしかった。ずず、と味噌汁を啜りながら言おうか言わまいか一瞬躊躇う。いや、でも、しかし。
「……別に、いいんじゃねえか、このままうちで飼っても」
俺に恋人ができたのはが初めてだ。まるで経験のない高校生の恋愛初心者同士にしては互いに上手くやっていたと思う。尊重し合い、認め合い、譲り合い、愛し合っていたと、思う。けれども卒業を機にプロヒーローとして活動をする中で生活が大きく変わると次第に互いの在り様は変化した。時間も余裕もなくなって、たまの休みに一緒に出掛けることがあっても上の空でいることが多かった。初めての部下ができると仕事がますます忙しくなって、いよいよのための時間はなくなった。そうしてが休みの日でも俺に仕事が入っていることが殆どになって、無理をして非番を合わせる必要はないとは笑うけれどもそれが気遣いでも遠慮でもなく強がりであることなどわかっていた。
だから俺のいない部屋でひとり過ごす時間の寂寞を一時的にでも紛らわすために猫を拾ってきたというのであれば、俺にそれを拒否する権利などあるはずもない。親父の二の舞いを踏んでたまるかとあんなに思っていたというのに結局寂しい思いをさせていたというのであればの心痛は俺が不用意にばらまいていたものだということであって、これは弁明の余地もない紛れもなく俺の失態だった。
「え、えっ?飼ってもいいの?」
ぱちりと目を丸くして、けれども隠しきれていない歓喜の色を露にしたに悪いと思いつつも、ひとつ頷きながら小さく噴き出した。
「ありがとう、焦凍くん」
そうして微笑むの表情に、俺は飽きもせずに何度だって思い知る。
なによりも、誰よりも、お前が好きだ。