「正義って、なんだと思う?」
秋めいた風景も木枯らしが吹くように連れ去っていった十一月、平素よりも僅かに人通りの少ない学校帰りの道中のこと。吐く息はまだ白んでいないけれども、元々低体温のせいで冬は特段に過ごしづらいのだろう、寒さに悴む手を暖めるように缶のミルクティーを両手で転がすから投げかけられたのは大凡静寂を誤魔化すための暇潰しとは思えない暗鬱な話題だった。
「……なんだそれ、またB組のやつになんか言われたのか」
「ううん、別に」
なにかと他人に絡まれやすい緑谷を凌駕する頻度でB組の物間とかいう奴に絡まれているの言葉だから、なにやら暗澹たる重苦しい事情でもあるものかと訊き返してみたけれども、あっけらかんと否定が戻ってきたことを鑑みるに、本当にさして意味は無いらしかった。いくら俺がひとの感情の機微に鈍感と言われようとも、さすがに声色やら雰囲気やらでそれが建前か本音かくらいの判別はつく。
「……正義なんて、定義は人それぞれだろ」
たとえばそれは、オールマイトのように平和の象徴と謳われる存在そのものが正義であったり、緑谷のように手の届く範囲にいるものは救おうと文字通り身を粉にして奮起することが正義であったり(尤も、緑谷の場合は大半がお節介だ)、ヒーロー殺しのようにみずからの英雄像を社会に知らしめることが正義であったり、その在り方は各々の主観で変わるものだ。今でこそ超人黎明期、ヒーロー飽和社会と言われてはいるけれども、定義を一概に言い切ることなどきっとできはしない。
「そっか」
俺の持つ英雄論がの知識のなんの足しになるのだろうかと疑問に思うけれども他人の疑問に疑問を抱いても所詮は徒労だ。俺の至って単純な回答がを納得せしめたのかはわからないけれども、二回程頷いたは指先の動きも軽やかに、既に幾分か温くなっているであろう缶のプルタブを開けた。空気の抜ける小気味良い音が寒空に響く。
街を歩いて周囲を見渡すとき、同年代の女性は皆挙ってデコレーションケーキか?と問い質したくなる程にきらきらごてごてと飾った爪を持っている。ああいった装飾を施された爪を見る度に、確かにきれいかもしれないけれども、引っかかれそうだと俺は熟思う。それに対して、の爪は綺麗だ。飾り立てられたきれいさではないそれは、どこか聖域のような清らかささえ感じる。
俺は「は、どうなんだ」と舌に乗せながらかつかつと缶のプルタブを人差し指の爪で弾く。俺のは紅茶ではなく無糖のコーヒーだ。
「私?」
訊き返されることを想定していなかったのか、が首を傾げ缶を持っていない方の手でみずからを指差した。俺は無言で頷いてプルタブを開けコーヒーを啜る。舌の上で転がす芳ばしい苦みを飲み込んで空を見上げると、僅かに雲が掛かっていた。
「……は持ってるのか、正義」
の誠実な性質を如実に現した大きな瞳が、俺を見つめるのが気配でわかった。俺はひっそりと目を伏せる。
揺らいでなんかいない。揺らいでなるものか。
人々の危機に掛けつけて、我が身を省みず敵と戦い、時には命を賭して綺麗事を実践する。昨今のヒーローとはそういう職業だ。そこになんの疑いも挟む余地はない。俺はそう思っていた。いや、違う、今でもそう思っている。それなのに、有無を言わせない圧倒的に強く不気味な力を見せつけられた。そうしたくとも儘ならない場合はあるのだと思い知らされた。どれもこれも、神野での出来事だ。
それならば、俺たちが掲げているはずのものは一体なんだ?
「言い出しっぺなのに申し訳ないけど。正直、私は正義とか大義とか、そういうものには興味なくてね」
はかつん、と缶の側面に爪を立てる。さっぱりとしたその口調はまるで秋の澄んだ高い空のようで、爆豪のそれとはまたどこか違った男前さがあった。秋の空が青く澄み高く見えることにはれっきとした根拠があって、秋になると大陸から移動してくる高気圧に覆われて空が晴れるようになる。この高気圧は空気中に含んでいる水蒸気の量が少ないため、透明度が高くなり空の青さが濃く澄んで見えるようになるのだ。
隣に目を遣ると、先程までこちらを見ていたはただ真っ直ぐに夕陽の沈み掛けた空を見上げている。夕陽の赤に溶け込むようなの髪の色を、綺麗だと思ったのは今が初めてではない。
「誰かを守るときにあんまり複雑なもの抱えてたら、身動き取れなくなっちゃうでしょ?私が持つのは、シンプルなものだけ」
「シンプルな、もの」
俺が反芻するように小さく呟くと、は「うん」と頷いた。
「今は仮だけどヒーロー免許、連絡用端末、それから」
「……それから?」
「誰かが誰かを傷つけていい理由なんてどこにもない。って、考え方」
誰かが誰かを傷つけていい理由なんてどこにもない。
の言葉は、俺のこころのなかにどこまでも真っ直ぐに沁み込んでいく。それはまるで全身に春の嵐を受けたような勢いで、けれど穏やかであった。凛と言い放つはとても綺麗で、俺はその横顔から目が離せなくなる。平素はあんなに慎ましやかで恭謙だというのに、こういうふとしたとき目の当たりにするの強かさはいったいどこから来るのだろう。真っ直ぐに空を見上げる瞳だろうか、或いは白くほっそりとしなやかな指先だろうか。
「あ、あと鉄分補給用タブレットね」
首を傾げながら茶目っ気たっぷりにが言うものだから、俺は思わず破顔した。つられるようにも顔を綻ばせる。ひとしきり笑ったあと、俺はぐいと缶を呷ってコーヒーを飲み干した。先程まで胸の奥で渦巻いていた暗雲はみるみるうちに消え去って、とても晴れやかな気分だ。顔を上げると、西に沈む夕陽によって赤紫に妖しく光る東の空が瞬きの間に瞼の裏側に強く残る。夏が過ぎて、秋になって、冬が近付いて、すっかり日は短くなった。
「私たちはまだまだ弱いから、プロになるには足りないものばかりだし、社会の理不尽に揉まれて、取り零して、涕涙して、疲弊して、ときには失意してしまうことだってあるかもしれない」
空になった缶を少し離れたところにあるごみ箱へ放ると、それは綺麗な放物線を描き気持ち良い音をたててごみ箱へ吸い込まれていった。同じようにも缶を放り投げる。それがごみ箱へ入る、かん、という軽い金属音に紛れて、ちいさな呟きが耳に届いた。
「それでも、私はヒーローになりたいよ、轟くん」