うつくしい輪郭



 進んだ分の思いを受け止める大きさを今持っていたならば、と現状を嘆いていてもなにも変わらない。わかっている、という言葉をいったい何度自分に聞かせれば本当にわかることができるのだろうか。

「えっなに、お前らまだ付き合ってなかったわけ!?」

 生温い温度を維持する教室の騒がしさは、ざわめきを失った木々たちとは対照的に今日も空気を震わすほどだった。朝の教室に素っ頓狂な上鳴の声がこだまする。声がでけえ。
 諌める意味で軽くねめつけて、鞄から教科書類と筆箱を取り出し机に仕舞いながら曖昧に頷くと、先程の一睨など意にも介さなかったのか、心底呆れたという表情で首を横に振られ僅かばかりイラっとした。
教室内に視線を走らせ、まだが登校して来ていないことにちいさく安堵の息を吐く。まあ、もし登校していたとしたら、さすがに上鳴も空気を読んで声をひそめていたのだろうけれども。

「俺とが付き合ってなかったら、なにかおかしいのか」
「いや、おかしいっつーか、あんなに仲睦まじい雰囲気で付き合ってねえとか、冗談だろ」
「……別に仲は睦まじくねえし、冗談でもねえよ」

 あるいは、冗談であればどれだけよかったことか。
 これを言うとクラスの奴らには「お前が言うか」と俺の"右"並みに冷たい視線を浴びるかもしれないけれども、は天然だ。恋愛感情に疎いというわけでは決してない。ただ、自己評価が頗る低いのが要因であるのか、自分に向けられる感情に恋慕の意などあるわけがないと決めつけている。現に俺は告白の意を伴った言葉を直球も変化球も含め既に三度は口に出しているというのに、その本意を捉えてもらえたことが一度たりとてない。これだけスルーされているのだから、さしもの俺だって落ち込むというものだ。俺の言葉を天然故の誑しであると片付けられてしまっているのだから報われない。
 のことが好きで好きでどうしようもなくて、に俺を意識してほしくて好きになってほしくて必死になっている、こんなに打算だらけの俺の、いったいどこが天然だというのか。どうしたらこの気持ちを理解してもらえるだろうか、と純粋な疑問を胸のうちで反芻しているうちに、俺はいつから他人の内面の機微にこうも拘うようになったのだろうかということに疑問点はすり変わる。の性質の片鱗に触れれば触れるほどに見えてくるものは、の内面よりもむしろ把捉の叶わなかった自分自身だった。

「あっ、おはよー!」
ちゃんオハヨウ!」

 芦戸と葉隠の声に、教室へが入ってきたことがわかり僅かに肩が揺れた。それは上鳴に肘で小突かれたからであって、驚いたからでは決してない。そう、決して。

「三奈ちゃん透ちゃんおはよう〜〜」

 ひらりと手を肩の高さに掲げるの表情は相変わらず朗らかだ。じっと凝視していると視線に気づいたのか、二回瞬きをして首を傾げられる。どうしたの、と問いたいときのの癖だ。なんでもないというように顔を横に振ると、もう一度反対側に首を傾げたはどう見ても納得のしていない表情だったけれども、芦戸に話し掛けられたのを契機に向けられる視線は途切れた。
 に出会うまではずっと、愛だの恋だのそんなものはおびただしい速さで流れていく日常に少し色を添える程度の附属品でしかないと思っていた。ともすれば、ヒーローになって親父を見返すためには邪魔になるものだとも。けれども、に出会ってからはそう思うこともなくなった。

「えっ、なにそれ!ラブレター!?」
「ちょ、三奈ちゃん声でかっ……」

 ラブレター。その単語を耳が拾った途端、カッと頭に血がのぼる感覚をおぼえた。芦戸に詰め寄られているの手にある白い封筒を認めると、頭にのぼった熱は更に温度を上げた。逆上せたように視界が白む。
 ずかずかと近づいて封筒をの手から引き抜く。「え、轟く、」瞠目するなどお構い無しに"左"の個性を発動させる。瞬間、灰となった紙切れに唖然とするの表情を見たら、先程までの苛立ちは鎮火するように成りを潜めた。

「……えっと、と、轟くん」
「悪い、制御ミスった」

 うそだ。悪いだなんて微塵も思っちゃいない。正直に言ってしまえば、開封されることも読まれることもなかったこの手紙の差出人に対してざまあみろと思ってすらいる。けれどもそれを口に出すほど俺は愚直にはなれなかった。こんなふうにこころの宿らない謝罪を吐き出して、代わりにのこころを引き寄せる重力のような言葉を探してみるけれども、頭のなかに立ちこめる積乱雲のせいでそう簡単に誂え向きの弁明は探せない。

「いいんだけど、いや、よくはないんだけど、えっと、あの、」
「……今の、どこの誰からだ」
「えっ、と……」

 珍しいことにひどく狼狽した様子で言葉を探しているに、こういうとき、もっと経験があったなら、と決まって過去の自分を悔いてしまう。他人が舌に乗せる愛だの恋だのそういうものものの密度を正しく測って遠ざけるための技術ではなくて、たったひとりの想い人の感情を上手に掬いあげるだけの器量があれば、と願わずにはいられない。こういう方面に於いての人間関係に背水の陣で挑むのはがはじめてだ。彼女の声に、或いは瞳に潜んでいるそれを確かに捕えたような気になった日もあったけども、硬く結んだ掌を開いてみればなぜかそれは見当たらない。だから俺はいつだってこうしてみっともなく右往左往している。馬鹿げている、と遠ざけていた行為に今や夢中だ。

「あの、これ、私宛じゃなくて、轟くん宛、なんだけど」
「……は?」

 一瞬、全ての音が遮断されたように途切れた。同時に頭の中に立ち込めていた暗雲が霧散していく。「校門の前でなんか、違う学校のひとに渡されて、轟くんに渡してくれって」なんていうの声がどこか遠くに聞こえる。自身の顔がみっともないくらいに赤く染まっているだろうことが容易に想像できて、体温が30度くらい一気に上昇した気がして、熱くて、熱くて、思わず教室を飛び出して逃げてしまいたくなって、けれどもを見て、逃げてはいけないと耳許で本能が囁いた。恐ろしいことだ。

「……、悪い」
「いや、私に謝られてもね」

 どうにか羞恥を誤魔化そうと俺はひそやかに舌の端を噛む。そんなことをしたって顔の赤らみなど誤魔化せるものではないのだけれども、は俺の顔を見て困ったように小さく笑った。

「なんか、ごめんね」
「なにがだ」
「なんでも」

 が舌に乗せた必要性のない謝罪の真意は分からなかったし、なんでも、も答えにはなっていなかった。けれども、がすこし呆れたように笑った、その笑顔こそが答えだった。
 俺の胸に燻るように残っていた蟠りが全て融解していく。そして未だ火照る頬を冷えた右手で押さえながら、脳裏は彗星のような驚くべき速度でその笑顔と声を記憶していた。