長い入眠から目を覚ますと、雪国であった。
……なんてことがあるわけもなく。
今となっては見慣れてしまった白い天井と鼻腔を刺す消毒液の匂いに、ああ保健室か、とぼんやり靄のかかった頭でも理解する。ヒーロー基礎学の記憶が途中から途切れているものだから、どうやらまたやってしまったようだった。今日の演習が午後の時間割りで良かったと言うべきか。カーテン越しにでも透けて見える窓際の光はすっかり夕焼けの色に染まっている。いい加減自分のキャパシティを把握して調整しないと、また相澤先生にネチネチ言われてしまうな、と憂鬱を滲ませたため息を吐くと、ベッドを囲っていたカーテンがシャッと音を立てて開かれた。
「漸く目が覚めたかい」
「……毎度すみません、リカバリーガール」
「謝るならまずはその子に礼を言っておやり、ここまで運んでくれたんだ」
あんたの”個性”はあたしにはどうにもできないから治癒は施していないよ、ただ寝かせてただけさね。そんなことを言いながら再度カーテンを閉めるリカバリーガールの言葉を心中にて反芻し、その子、というのは果たしてどの子なのかとなぜか重石でも乗せたように動かない身体に首を傾げて、ぐっと首に力を込め顔だけを起こした。
「えっ」
ベッドに横になっていた私の胴体部分に覆いかぶさるように突っ伏していたのは轟くんだった。ゆっくりと上下する身体と、微かに耳に届く規則的な呼吸音。どうやら珍しく眠っているらしい。制服姿なのは、ホームルームの後にもう一度来たということだろうか。
怠さの残る身体に鞭を打ちずりずりと躙るように上半身をなんとか起こして、ベッド脇の丸椅子に座ったままこちらに突っ伏している轟くんの様子を窺う。
伏せられた目にいつもの鋭さはなりを潜め、年相応のあどけなさが残っている。痛々しい火傷跡はあまり見ないようにして、さらさらとキューティクルの守られた髪にそっと触れた。私の、どちらかといえば赤というよりはマゼンタに近い色とは違う、ずっと深く濃い赤だ。それはなんだか血液を彷彿とさせるようで、けれどもそこに彼の端正な顔の造りを邪魔する要素などひとつとしてない。
綺麗だな、と率直に思う。その上個性も強力でそれに甘えないストイックさもあって、真面目で、多少天然のきらいはあるけれども、それだって欠点には成り得ない。
私とはまるで正反対。じりじりと身を焦がすような自己嫌悪が、心臓のうらがわをちくりと刺す。
今日の演習はさながらマリオカートのミニゲームにあるような二対二の的当てマッチであった。身につけた3つのポインタを的に見立てて、制限時間内にいかに相手の的に攻撃をピンポイントに当てることができるか。私のペアは障子くんで、話し合いの結果どちらかといえば攻撃力に長けた私が特攻する役割になった。ポインタをつけた相手が人間であれば、いつもの銃や針は使えない。相手に近づく際、撹乱のためにとセメントス先生の個性を真似て幾つも壁を生成しまくったことが昏倒の原因だ。どうにか相手の的を射たような覚えはあるのだけれども、それ以降の記憶がなかった。あまりの情けなさにため息すら出ない。私はアホか。
「……あれ、結局どっちが勝ったんだろう」
「勝ったのはお前らだったぞ」
返ってくるなんて思わなかった独り言に返事が来て、思わず肩と心臓が盛大に跳ねた。轟くんの髪に触れていた手を弾かれたように離す。ばくばくと早鐘を打つ心臓を抑えるようにして呼吸を整えていると、轟くんはゆったりと身体を起こして日当の猫のようにぐっと伸びをした。ぱき、と関節が音を立てるのを耳が拾う。
「お、起きてたの」
「あんだけ見られて髪まで触られりゃ普通起きる」
そりゃそうだ。
「それはごめん……っていうか、あれ?私のペア障子くんだったよね?なんで轟くんが」
「お前個性使いすぎると低体温症になるだろ、今回は特に酷かった」
「ああ……そうね……、大変ご迷惑をお掛けしました……」
元々血が通っていないせいで、基礎体温は一般的な数値より大分低い値を叩き出している。それなのに個性を酷使しすぎると余計に貧血紛いの眩暈は襲うわ体温は余計に発散されるわで毎回コントロールには苦心させられていた。事実、実習中に昏倒した回数はもはや片手では収まらず、緑谷くんと並んで保健室の常連客と化している。まだ入学して半年も経っていないというのに。
低体温症になったときに助けてくれるのは大体がいつも轟くんで、それは彼が戦闘で左を使うようになる前からの話だ。要するに体育祭での出来事よりずっと前からである。苦しくなって頭を抱え重い息を吐き出せばひどく情けない笑声が漏れた。もはや間の抜けた自分自身を笑うことぐらいしか私にはできない。
「……本当に、ごめんね、轟くん」
「なにがだ」
「なんていうか、お世話になりっぱなしというか、迷惑掛け続けてるっていうか、なんか、本当、こんなんで、情けないや……」
なんとか暗くなりすぎないように努めたけれども、か細く漏れた言葉はすこし鼻声になってしまった。
情けない。慣れたはずの言葉は、けれど卑屈な心にナイフのように突き刺さり、俯いた視界をじわりと滲ませる。
「……俺は別に、世話してるつもりも迷惑掛けられてると思ったこともねえよ。……ただ、」
先程私が眠っていた彼にしたように、やさしく髪に触れられた。意図的に伸ばしている一房を指に絡めて、梳くようにするりと通していく。
その行為の始終、私はまるで金縛りにも遭ったかのように身体を動かせないでいた。視線はずっと轟くんの顔に縫いつけられてしまっている。私の髪に触れる轟くんの、こんなにも柔らかな表情を今まで見たことがなかった。
だって、そんな、まるで恋人に向けるみたいな、甘い顔。なんで、それを私に向けるの。
「は頑張ってると思うし、それを支えてやりてえとも思ってる。……できれば、誰よりも一番近いところで」
告白に酷似した、それでいて告白の意をまったく伴わない科白を微かに震えた声で言って、そうして目を合わせてくる轟くんの眼には確固たる意思が潜んでいた。思わずそっと息を呑む。その拍子に目尻に溜まった水分がぼろりと溢れた。
目をめいっぱい見開いて間抜けな顔面を晒している私の青い瞳には轟くんのどこまでもどこまでも真率な顔が映っている。そんなに真面目な顔をしてそんなにひどい冗談を言うひとがありますか、路地裏の捨て猫だって幾分かましな冗談を言います、質問の回路は途切れて消えた。決して長くない付き合いの中でも私は轟焦凍という人間を知っている。リスクを覚悟して、愛して背負った人間の目を、声を、息遣いを知っている。
「……轟くんは、ずるいね」
いつかも口にした文句じみた言葉と共に恨めしげに視線を彼に向ければ、いつかに返ってきたような問い掛けはなく、はは、と平素からは想像もできないくらい、ひどくやわらかに彼が笑った。その瞬間、こころの奥底に刺したおおきな白旗がはためいた。降参だ。
日暮れ前、黄昏時、私たちは世界の片隅でそっと息を引き取る、今を生きるために。