キン、と細く鋭い音を立てて足元が凍った。
思考を巡らすよりも先に手を伸ばして、地面と一緒くたに凍らされた足へ素早く触れる。途端にじゅわりと沸騰するように氷が溶けた。靴下が濡れて些か気持ちが悪いけれども、この状況ではそうも言っていられない。足へ触れていた手を、ぴんと伸ばした指もそのままに目前を指すようにさっと振るうと、凡そ二十はあるであろう数の針が弾丸のように相手へと降り注いだ。バックステップでその場から数歩下がって、追い討ちを掛けるように腕を振るい、更に幾つか針を投げる。ぼぼぼん、と爆音を鳴らして立て続けに針が爆発したのを確認して思わずぐっと拳を握った。手応えはあった、と思う。
「……うわっ、」
「なるほど、悪くねえな」
けれども、そう甘くはなかったらしい。
針の爆発を氷の壁で防いだらしい轟くんは、地面に手を置いたまま新たに巨大な氷を形成する。こうなったら遠距離ではなく接近戦に持ち込んでやろうかと駆け出したけれども、まるで体育祭のトーナメントで瀬呂くんを丸ごと氷漬けにしたときのようなそれに、ぎょっとしながら慌てて飛び退き太腿のホルスターからスーパーレッドホークを抜いた。全く、彼は相変わらず容赦がない。
ズガガガン、と何発か氷に向かって射撃した、けれども48口径の銃弾では爆発させたところで強大な氷に太刀打ちできるわけもなく。
「……仕方ない、」
こうなったら奥の手というやつだ。
先程レッドホークを抜いたのとは別のホルスターからスピアブレードのバタフライナイフを抜く。畳んでいたそれを片手のまま遠心力で開き掌に刃を押し当てた途端、ごぽりと銀白色の液体が掌から湧き出した。多量に溢れるそれを轟くんに浴びせ掛けるように投げる。咄嗟に左を使おうとしたのか、僅かに腕を浮かせて、けれどもはっとしたように動きが止まった。
そう、燃やしてはいけない。何故ならそれは水銀だから。
まさに好機であるこのタイミングを私が見逃すわけがない。地面を蹴って一気に距離を詰め、轟くんのジャージの右襟と左袖をがっしりと掴んだ。解こうと右腕を伸ばされるけれども、申し訳ないが握力には相応の自信がある。なんせ入学時の個性把握テストで私は上鳴くんや瀬呂くんにゴリラと言わしめる握力値150kgを叩き出しているからだ。そして彼の両腕には既に、先程投げ掛けた水銀が薄い膜となって覆っている。融点が氷点下マイナス三十度に近い水銀を凍らせるのは、きっと彼とて容易ではないだろう。
右足で轟くんの左足を軽く跳ね上げながら、両手で右前隅へ浮かし崩した瞬間、ぐっと右足を彼の右足前側に踏み出す。彼の内股を退いてすかして、身体が前に崩れた一瞬、右足を前に踏み込んで引き落とし、そして投げた。
どさりと鈍い音を立てて地面に背を着けた轟くんの身体に乗り上げるように、肋骨から下腹部にかけて右足を倒して乗せる。左足は右の掌を踏むように、右手は左の掌を地面に伏せるように掴んで、最後に左手を首筋に這わせた。
「……私の勝ち、でいいかな。轟くん」
そのときの私の顔はきっと、平素の表情からかけ離れた相当悪どいものだったに違いない。なにせあの轟くんが僅かに引くような素振りを見せた程だ、もしかしたら爆豪くんのヴィラン顔とどっこいどっこいではなかっただろうか。いつも戦闘訓練のときに三奈ちゃんや透ちゃんに「ちゃん顔ヤバイよ〜」と言われるのだけれども、これは反省するべき事案かもしれない。
「……ああ、俺の敗けだ、」
両手を抑えているためにハンズアップすらもできない轟くんが、些か悔しさを滲ませてそっと息を吐いた。
先程までの戦意が萎んだらしいその面持ちに、私はにっこりと笑顔を浮かべて轟くんの上から退いて立ち上がりながら、右手を目前に掲げて指を三本折る。
「えっと、これで私の13勝15敗1引き分け?かな?」
体育祭からこっち、轟くんとの放課後の組み手は、お互いの時間さえ合えばほぼ毎日のように続いていた。内容は個性を使った模擬戦闘がメインになるけれども、稀に体術のみで行うこともある。それはひとえに「強くなるためには強いひととやるのが一番」という私の我が儘に依るものが大きいのだけれども、個性の相性差もあるというのに彼は文句のひとつも溢すことなく付き合ってくれる。ありがたいことこの上ない。
ちなみに爆豪くんとも何度か組み手をしたことがあるけれども、似たような爆発能力を持つ個性なので決着らしい決着がつかないまま、私の体力消耗による不完全燃焼で毎回終わっている。私も身体は相応に鍛えているし、体術もそれなりに覚えている、そして爆豪くんの戦闘センスは確かに目を見張る素晴らしいものであるけれども、やっぱりいろいろと相性は悪いようだった。
「やっぱりあれだね、轟くん、前は凍らせるだけだったからまだいいけど、今は咄嗟に燃やそうとしちゃうから危ないね」
最初に投擲した幾つもの針、つまり雷汞はまだいい。どちらにしろ爆発のための化合物であるから燃やしても問題はないし、水に溶解しやすい雷酸水銀は凍らせても問題がないからだ。けれども水銀はいけない。あまりにも毒性が強すぎる。そりゃあ、有機か無機かのコントロールは可能であるし人体に影響の出ない程度の用法用量も制御はできるけれども、燃焼により気化した水銀は肺から吸収されやすくて、もし体内に吸収されてしまった場合には、ヘモグロビンや血清アルブミンと結合して毒性を示すのだ。安易に燃やしては命に関わる。
「ああ、もうちょい判断速度上げねえとな」
首に手を遣って凝りを解すような仕草をする轟くんに爺臭いな、と思ったけれども口には出さず飲み込んだ。たぶんそれが正解、だと思う。
貧血のせいか、うまく回らない思考と僅かにぐらつく視界に軽く頭を振った。そして今日の晩ごはんにはほうれん草のお浸しとレバニラ炒めを作ろう、と心中でこっそり思案する。個性が個性故に鉄分補給をしたとて然して意味はないのだけれども、気持ち程度だとしても摂取しておいて損はない。
「……さっきの、」
「え?」
ふと気づくと、先程よりも轟くんとの距離が近い。ぱ、と空気のゆらぎを感じて目を遣ると、轟くんの右手が私の左手に触れていた。ぐいと手を引っ張られて、掌が上に向けられる。轟くんの親指が擦るように掌の上を滑って、擽ったさにすこし身を捩ったけれども、手は離されなかった。
「さっき、掌切ってただろ。……傷は、」
「えっ、ああ、あれね、大丈夫だよ、すぐ消えるの」
私の体組織の殆どが個性に依って形成されているものだと、以前に誰かへ言ったことがあった気がするのだけれども、それは誰だったろうか。
私は、先程みずからで傷をつけた左の掌がやさしく撫でられるのを、どこかスクリーン越しの出来事ような感慨でぼんやりと見ていた。武骨で、けれども整ったきれいな轟くんの指先は、個性の影響なのか真冬でもないのにひんやりと冷たい。触れているそこから私の掌までが徐々に冷たくなっていくようだった。それなのに、じわじわと首から立ち上るような熱が、ただでさえ回らない思考を更にぼんやりと鈍らせる。
「……送ってく」
ぱっと手のひらが離れていき、それ以上冷たい指に私の体温が奪われることはなかった。はっと我に返って、思わず自分の両手を頬に当てて俯く。これだから無自覚イケメンは困る。一度相手を懐に許すと、途端にガードもパーソナルスペースも弛んでしまうらしかった。
一刻も早く、この頬の赤みを抑えてしまわなければ。既に出口へと進んでいた轟くんに続くように慌てて演習場を出る。電気を消して先生に使用後の報告を済ませ、足早に学校を出ると外はすっかり暗くなってしまっていた。
「……轟くんは、ずるいね」
「? なにがだ」
首を傾げた轟くんが腰を折るようにして私の顔を覗き込む。陽の沈んだ暗がりでもなお眩いほどに輝くオッドアイの双眸に、私はもうそれ以上何も言えなってしまった。なんでもないよ、と言うように緩く首を左右に振ると、本当に出したかった言葉たちはひっそりとため息へと変わって、空気に溶け込んで消える。
轟くんに触れられていた掌はなかなかあたたかさを取り戻さないというのに、未だじんわりと籠る頬の熱は、まだ引かない。