讓我們彼此忘記



 誰にも会わない休日が出来た瞬間に死んだように眠って、目が覚めても眠たくて身体はずしりと重たくなっていた。
 呼ばれたら文字通りびゅんと飛んでいく、呼ばれない日は人間に混ざって仕事をして、たまに友達と遊ぶ。そんなことを繰り返していたら、いつの間にかじりじりと何かがすり減って、満ち足りた瞬間がどこにあるのかもわからなくなった。
 ただなんの理由もなく葡萄色に塗った爪を眺めていると、まるで子どもが母親の口紅を塗って喜んでいるみたいに見える。ノンアセトンの除光液でマニキュアを黙々と落としながら、あのツンとした匂いがしないのが逆に寂しいとすら思った。
 今週は忙しくて会えそうにない、という素っ気ない文面を何度も頭の中で繰り返しながら、来週はあるのだろうかという気持ちだけが過っていく。昨晩なんとなく食べた、大量に冷凍庫に入っていた期間限定の哈根达斯は最近発売のものではなくて、けれど彼が食べている様子はない。二月にまとめて買いこまれた味を本当に食べる予定だったのは多分わたしではないのだろうと、嫌いな白巧克力味のアイスクリームを飲み込んだ。そのアイスクリームの重さで胃がむかついていて、胃だけじゃない身体ぜんぶがむかついている。のこのことアイスクリームをふたりでひとつのスプーンで分け合って美味しいと言い合ったかつての自分に、冷凍庫に入れっぱなしにしている彼に、嘘も本当もない部屋に、それなのに潔く離れることの出来ない中途半端さに。
 活字も電話越しの声もいらない。じゃあ、顔を合わせることや、何もないふうに笑いあいたいのかというと、それだって別にいらなくって。会えないことを寂しいなんて嘘ばかりで、会えば会う程に身体も心も疲弊して枯渇していくのが分かる。
 何も食べたくないし、何もしたくないと言いながら、やっと両方の指が元々の薄い桜色に戻っていく。ゆっくりと立ち上がって、血液のように毒々しい赤色に染まった棉布をまとめて屑籠に放り込んで、水道水をコップに入れて飲み干した。冷蔵庫の中は空っぽで、招牌拌飯醤や辣油、鎮江香醋なんかの調味料ばかりでまともに食べられそうなものは本当にまったく入っていない。だからといってわざわざ着替えて買い物に行くような元気もなくて、いっそ寝てしまおうかと自分のベッドに音を立てて飛び込む様に潜り込んだ。携帯を開くとWeChatの通知が来ていて、私はそのまま電話帳を開いてメッセージの主に電話をかける。三コール目で繋がるプチッという機械音がして、珍しく僅かに慌てたような无限の声がした。本当にほんの少し、碌に関わりが無ければ気づかない程度の焦燥は、けれど私の声に異常が無いと察するやいなやすぐに消え去った。

『――?』
「ごめん、今大丈夫」
『……大丈夫、急に連絡なんて珍しいけれど、どうかしたのか』
「休みだから今日。なんか微信来てたし」
『つまり、打つのが面倒だったんだな』
「それもあるけど、明日じゃなくて今から会えるなら会いたかったから」

 彼が電話越しに鯉みたいな顔をしているのが想像できるくらいに無音ばかりがこちらにやってくる。しゅう、とすうっ、の合間みたいな呼吸をした无限が「何処で」と静かに問うから、私はちょっとだけ考える間を作った。
 お腹減ってる?だとか、何時に終わるの?だとか、泊まっていけるの?だとか訊きたいことは幾つもあった。けれど、それら全部を无限に訊きたい訳じゃなくて、携帯を持っていない方のぺらぺらな爪でいつの間にか布団を強く握っていることに気が付いた。爪は塗り直さないでも大丈夫、冷蔵庫に何もなくても、多分、大丈夫。

「わたしの家」
『……分かった』
「あ、冰箱の中なんもないから」
『食べてないのか』
「食べてない」
『……適当に買っていくからな』
「やった」

 ほんの少し呆れたように小さくため息を吐くと、「また後で」とやけに冷静ぶった无限の台詞を最後に通話は切れて、ツー……ツー……、という無機質な電子音を私はじっと耳に押し付けて何分も聞いていた。聞いても聞いても飽きないから、電話を押し付ける手が疲れるまで聞くはめになる。
 漸く腕を下ろして、携帯を枕の横に放り投げて、猫のように身体を丸めて目を閉じて、私は无限ではない人のことを考えた。我儘を言えなくて、近寄った気がしなくて、神様みたいに呆れた目の、次があるかも分からない人のことを。
 人間のくせに、私たち妖精に限りなく近く、妖精館で働く執行人の彼は忙しい。私は治癒に関わる木属性の御霊系能力を持ってはいるけれども、館で直接的に働けるほど能力は強くないし霊域も小さい。だから紫罗兰みたいに、人間と馴染むように生活をしている。
 无限には早く家に来てほしくて、買い物なんてしないでいいからすっ飛んできてと言いたくて、でもそれは多分、无限じゃなくてもいい。けれど、だった一人でふて寝をしながら相手にされていない男のことを考える時間なんて必要じゃなくて、全てを遮断するようにきつく目を閉じる。
 丸まって、時間が来るのを待って、またWeChatの通知が鳴って携帯に手を伸ばす。ぼんやりしているうちにいつの間にか一時間以上が経っていて、仕事の終わった无限が永輝超市に寄ってからこちらに来るということらしい。来るまでにまた迷わなければいいけれど。了解、というのが伝わるであろう適当なスタンプを送って、また丸まった。
 鍵を開けておくのも合鍵を渡すのも億劫なまま、无限のことを少しだけ考えて目を閉じていると、三十分もせずに呼び鈴が鳴って、漸く迷わずに来れるようになったんだなと思いながらよろよろとドアを開けると、ほんの少しだけ疲れた顔の无限が立っていた。私の借りている部屋があるマンションは龍游の中でも特に人間が多く住む居住区だから、仮に迷ったとしても空を飛んで来るわけにはいかない。この様子だとやっぱり少し迷っていたようだった。いい加減慣れてほしい。

「おかえり」
「邪魔する」
「どうぞどうぞ」
「出来合いのものしか買ってきていないけれど、それでいいだろう?」
「うん、寧ろ助かる、お腹減ってたし」
のはこれだ」

 差し出してきた温かいお弁当を受け取りながら、全く正解だ、と口には出さずに思った。彼に料理をさせてはいけない。原理はわからないけれども、肉でも魚でも、ただ焼くだけで不味い料理を作り出す天才だからだ。
 おかえり、と口では言ったものの无限と同居しているわけではなく、ただの癖のようなものだった。人間だから(実際にはもっと複雑で難解な要因があるのだけれども)という理由で館には住んでいない彼がどこに住んでいるかなど知る由も無い。私なんかよりもずっとずっと長く生きている无限は、秘密主義というわけではないにしろ個人情報をおいそれと他人は漏らさない。けれどそれは警戒心が強いだとか防衛本能が高いだとかそういうことではなく、単純に口下手だからに過ぎなかった。だからと言って無理に聞き出そうなんて思わないので、お互いに不可侵領域を構えているのは間違いないだろう。
 テーブルにふたつのお弁当を並べて、私は2つのグラスに麦茶を注ぐ。仕事の後、暑い中无限が来てくれた、ということに今更ながらやっと気が付いて、彼の顔をまじまじと見てしまった。長い睫毛が影を落とすように目を伏せた无限に「ありがとう」と返すと、彼は困ったように唇を曲げて「いや」とだけ不器用な相槌を打つ。
 まるでついこの前の私を見ているみたいで、胃の中でホワイトチョコレート味のアイスクリームが暴れまわっている気がした。お弁当を食べるために手を合わせて、割り箸を割る音が、クーラーの音だけが響く部屋で乾いた感じに響いている。