少し前を歩く洛竹の、襟足の短さにまだ慣れない。
公園へと続く歩道を進む洛竹の歩幅はいつもより少し大きくて、荷物を何も持たず空の手で歩くその掌は清々しそうだ。
ゆったりとした太陽の光とは裏腹に風はまだ少し冷たく、散り始めている桜の花びらと一緒に、耳と首の後ろをひやりと撫でて消える。
明るい茶色の彼の襟足を摘まむために、少しヒールの音を立てて真後ろにまで追いついた。足の長さと不釣り合いに小さい頭がこちらを向いてしまうよりも先に、記憶の奥底に潜むそれよりもずっとずっと短くなっている襟足を指先で引っ張るように摘まむと、くすぐったそうな、愉快そうな声で洛竹が唸る。まるで尻尾を掴まれた犬みたいで、わたしは喉の奥の笑いを飲み込んだ。
「ねえ、髪、どうして切ったの」
「……うーん、今まで伸ばしてたのが願掛けみたいなものだったから」
「うん」
「でもこれ評判悪いんだよね、シューファイとかテンフーには違和感あるって」
「そりゃ200年も同じ長さ維持してればねぇ。わたしは好きだけど」
「シュンスイは趣味悪いからなあ」
「彼氏の趣味も悪いから?」
「うるさいな」
隣に並んでそっと指先に触れると、彼の手が先にわたしの手をゆっくりと包み込んだ。顔を上げて見つめると「良いでしょ」と念押しするように洛竹が目を細めて笑う。
わたしはちいさく首を傾げて返事を濁す。声に出さなくたって、顔が見えなくたって、きっと伝わってしまっている。
もう少し短い髪の洛竹も見てみたいけどなあ、まぁ世の中色々あるもんね。そんなことを脳内だけでつらつらと考えて、手の温度を感じながらゆっくりと歩く。いつの間にか洛竹の歩幅はきちんとわたしに合わせられていて、決して口に出すわけではないけれど、嗚呼、と思った。
先に、手を繋いでいることに耐えられなくなったのはわたしの方で、指先から恐るおそる解く様に動かすと、にこにこと屈託のない顔をした洛竹が表情とは裏腹に強引な力でそれを押し留める。
広い公園の入り口と、看板と、通り過ぎる自転車や、原っぱの緑。そこかしこでレジャーシートを広げている人がいたり、楽器を吹く練習やスケートボードの練習をしている人がいた。入り口から見ると丁度少し首を上に動かしただけで見える位置の桜は、今振り返ると少し高く、そして遠くに見える。地面にはまだ汚れていない桜の花びらがぱらぱらと残っていて、これからもっと散っていくのだろう。
わたしは彼の手から離れると、まだ土に汚れず綺麗なまま落ちている桜をひとつ摘まんで彼に見せる。
「手、汚れるよ」
「最初にそういうこと言うのモテないよ」
「いいよ今更モテなくて、シュンスイいるし」
「ねえ見て、綺麗」
「はいはい、きれいきれい」
桜の落ちた根元の部分を摘まんで、人差し指と親指でくるくると回す。そういえば、小学校の授業で桜の花の写生があったのは、学校に必ずある木だったからだろうか。そんな授業をやったことがあるのか、洛竹にもあとで訊いてみようと思った。
くるくると回すたびに、雄しべの先端、花粉が付いている部分がぶつかりあってコーヒーカップに見える。これは葯だっただろうか。萼、子房、胚珠だとか、そういう部位もあった気がする。
もう殆ど忘れてしまった上に、戻ることも叶わない。もし戻れるのならば、その道を選ぶのだろうか。わたしを呆れた顔で見ている洛竹にも訊いてみたい。忘れていく沢山の事と、覚えておきたい沢山の事の取捨選択がわたしは頭の中で上手くできない。そんなことを言ったら、みんなそうだよと誰もが笑うだろう。
それでも、わたしは今、わたしを見て笑う、もうハーフアップが出来なくなる程に短くなった茶色の髪を首筋の辺りで揺らして、笑っている洛竹を忘れたくなかった。
ああ、そんなこともあったかもしれない、なんていう曖昧さではなく、確実な記憶を、記録を、積み重ねていきたい。
拾った桜をどうすべきが決めかねてしまう考えなしのわたしの手から桜をするりと奪い取って、洛竹は躊躇いもなく地面に落とす。想像よりもすとんと真っ直ぐに落ちた花びら、お互いの指先にはほんの少しだけ土がついている。
「ほんと考えなしだなあ」
「今のは確かに」
「ま、別に良いけどさ」
ジーンズの後ろポケットからハンカチを取り出した洛竹がわたしの手を取った。指先の汚れを拭き取った後、繋いだ手には有無を言わせない力みたいなものがあって、わたしはただよく分からないほど広い公園を歩くことになる。多分彼にも行きたいところはなくて、でもどこかには行きたくて、その隣にわたしがいつもいられたらいいのに。
まだ蝋梅も咲いている、緑は冴え冴えとしていて、遠くでスケートボードの車輪が地面を擦る音が聞こえる。ゆっくりと、帰るのに疲れてしまわないようにふたりで地図を見る訳でもなく、ただ歩いていた。
一度びゅうと強い風が吹いて、洛竹が「寒い?」とわたしに訊いてくれて、でもわたしは首を振りながら「ううん」と答えた。
ぽつぽつと見える桜の木と、すれ違う人、自転車、追い越されたり、追い越したりしながら進んでいく。
話したいことも訊きたいことも沢山あったのだけれども、言葉より雄弁に語られる彼のすべてに、ただ身を委ねる。