さようなら、と声がした。
さようなら、と声がしたから、私もまたさようならと返した。ありがとう。さようなら。体内に溢れ返った感情はいつしか液体になって、瞼の内側からほろりと零れた。零れたそれはいつしか水溜まりになって、白く細やかな流砂の底から緑色の蔦が芽を出した。蔦はつるつると伸びてあっという間に私の肩に届く高さになり、竜胆色の花を咲かせた。健やかな花びらをするりと撫でて、私はびっくりした。その感触を知っていたのだった。例えばいつか掌と掌を合わせたとき、例えばいつか両手で背を撫でたとき、まったく同じ手触りを感じたことがあった、と一瞬のうちに思い出された。どうして忘れてしまっていたのだろうかと疑問視したけれどもその理由は分からなかった。どうしてか懐かしいその花はつるつると伸び上がり、私の背を越えるまでになると今度はみるみるうちに枯れていき、くたりと頭を垂れ、色を変え、花弁を散らし、白い砂になった。砂の一粒を捕まえてみれば、さようなら、と声がした。私もまたさようならと返し、握り締めていた掌をそっと解くと竜胆色の花びらが乗っていた。私は膝を折ってその場にしゃがみこんで、いつのまにか海になっていた水溜まりの底へと丁寧に花びらを埋めた。するとたちまち緑色の芽が顔を出し、つるつると伸びて今度は形状も厚みも異なる白菫色の花が咲いた。同じように指先でそっと撫でてみればやはり同じような手触りだった。ああ、あの人の皮膚だ。理解したと同時に花は枯れ、また同じように一連の動作を繰り返し、すると今度は浅緑色の花が咲いた。
ひろいひろい砂漠の海にたったひとりで立ち尽くす日が来ようと私のいのちはどうしたって孤独には程遠い。永遠と思える別れのあとも、何度目かも分からないさようならのあとも、私にはふたりぶんの微かな呼吸音が聞こえていた。姿を変えて何度でも、ひとつのいのちでめぐりあう。
両足を浸していた海はいつのまにか枯れていた。朝が来たのだった。
「おはよう、シュンスイ」
九十度に傾いた世界で风息が言った。二十畳の部屋いっぱいに豆乳の匂いが立ち込めて、牛奶の海に浸っているようだと思ったら振り払うことのできない眠気がどっと押し寄せて、私は枕に埋もれて瞼を下ろした。
「二度寝するのか?朝飯、出来てるけど」
すん、と嗅覚を働かせれば豆乳の匂いに混ざって香ばしい匂いがした。油條の匂い。大抵私よりも遅くに眠りに就く风息は、大抵私よりも早く起きて朝ごはんを用意して私が目覚めるときを待っている。朝ごはんは大抵、粉砂糖かふにゃふにゃになった奶酪が夥しいほど乗った油條だ。
「……ん、起きる」
「ん、早上好。豆浆飲むか?それとも鹹豆漿かココアでも作ろうか」
「豆浆がいい」
ベッドからのっそりと這うように抜け出して、開ききっていない目もくしゃくしゃになっている癖っ毛もそのままに、豆乳を温めるための雪平鍋と向き合う风息にびったりと張り付いたら、木べらを手にしていた风息は危ないからと言って私を窘めた。私は構わずに风息が着ているパーカーをたくし上げて脇腹をそっと撫でた。石竹色の、或いは藍白の、或いは白緑の花とまったく同じ手触りだった。
「何、朝から積極的だな。そういう気分なのか?」
「夢を見たの」
「へえ、どんな」
「花が咲いてた」
「ふーん」
興味がなさそうに相槌を打ちながら、风息が水切り籠の中からスープボウルを取り出して豆浆を注いだ。
何度枯れようと、何度さようならを告げようと、決して私をひとりにはさせない花の匂いをふと思い出して、大声を上げて泣きたくなった。言葉では言い表すことのできないやさしい匂いだった。例えるのなら、日曜の朝に恋人が淹れてくれる豆浆のような匂いだった。当たり前だと思ってはいけない幸福は、けれど当たり前のようにそこにある。
私とこの人は今まで何度別れて、何度愛し合っていたことを忘れてしまったのだろうか。今は何度目の巡り合いだろうか。愛し合っていたことを思い出すのは何度目のことだろうか。
风息の温かい背に擦り寄って、そっと腕を回して抱き締めて、こんなふうに不毛なことを考えている私もまたいつか朽ちていく。そうしたら、私も会いに行くのだろう。涙の海に足首を冷やすこの人の許に、名前を変えて、姿を変えて、同じ眼差しで、同じ匂いで。
「ほら、朝ごはん食べるぞ」
背中にへばりついている私をそのまま引き摺るようにして、风息は食卓へと向かう。食卓には二人分の朝食が並んでいた。