玩和告别



 時々、同じ夢を繰り返し見る事がある。
 何枚もの薄い布が重なり合い繭のような壁となっている空間。
 どこを見ても白しか存在しないそこはどれだけ目を凝らしても焦点が明瞭になることはなく、時折さわさわと木々が揺れるような音でざわめいている。
 羽衣のように薄い布の向こう側にはひとつの人影が浮かんでいて、けれど幾重の衣のせいでそれが誰なのか、どんな顔をしているかも窺えない。
 その姿はどこか泣いているようで、傍へと行きたいのに、手を伸ばすと途端に衣に拒まれてしまう。
 更に衣が壁を包んで――……、
 目醒めると、“俺”が泣いていることに気付くのだった。

「フ~シィ~」

 間延びした呼び声に振り向くと、彼女が携帯を俺に見せて顔を寄せてくる。画面に浮かぶパズル画面は彼女の得意としている紫色と青色が全く配置されておらず、「詰んじゃった」と子どものように唇を尖らせて一言。「へえ」俺は無意識のうちに片方だけ上がった口角と、それに含まれたどうでもいいという感情を隠そうとしないまま声を出した。
 詰んでいることを特に悔やんでいるわけでもなく、単に見せたことで満足したのか、またするすると画面に指を滑らせ始めた、殆どすっぴんに近いつるんとした横顔を眺める。何度か詰まることはあったものの、淀みなく画面に指先を滑らせること数分。会話のない部屋に流れる海外ドラマの時折起きるいやに大きい銃撃や爆発音に彼女は小さく肩を跳ねさせた。俺が知らんふりしているのを、気付いていないのだと思って、さも何事もないという顔をしてまた携帯に目線を落とす。
 繊細な睫毛の影がきちんと頬に落ちているところや、ふわふわとしたパーカーのポケットに押し込んだリップクリームを時折取り出す姿に、彼女が俺とは違う概念を持つ生き物であることをなんとなく思い出させる。有名なブランドのパジャマよりもずっとあたたかく、やわらかく、無駄なもののない身体つき。

「終わった……」
「クリアしたか?」
「した」
「寝る?」
「まだまだ」
「ほい」

 リモコンをテレビに向けて一時停止していた海外ドラマを再生すると、彼女がなぜかいやに驚いた様子で携帯をポケットに押し込んで俺の隣にくっついてくる。あんなに素早く動いていた筈の指先がひやりと冷たいのも、彼女が女子だからなのか。
 少し伸びすぎに思える爪に塗られたマニキュアの粒子状の光がまるで星のように瞬いている。俺の手首を掴んだ指先の、余りに華奢なおうとつに少しだけ不安になった。このまま無くなってしまいそうな細く小さい指先を誤魔化すために爪ばかりが長いのだろうか。

「フーシー?ドラマ見たかった?」
「え?あー、いや、別にいい」
「いいの」
「構ってほしいんだろ」
「うん」

 テレビの電源を落として、離れていく細い指先を今度はこちらが掴んだ。まるで学校の容儀検査みたいに、じっと彼女の手の、指の、爪の形を見ていた。彼女の手を掴んでいる俺のごつごつとして、若干日焼けした手指とは全く違うかたち。よくよく見ると、マニキュアの根元から自爪の白が見えていて、困惑したような視線が降ってくるのはそのせいかもしれない。
 身長も、体重も、全てのサイズ感が俺とは違う。もしも指を反対方向に向けたらそのまま枝のようにぽきりと折れてしまいそうなのは、こちらの武骨さと、彼女の華奢さのふたつが混じり合った結果だろう。
 例えば、友達や身内の子どもを抱かせてもらった時、小さな手の平や歩けるはずもないのに履かされた俺の手の平よりずっと小さい靴。もし俺が急に眩暈でも起こして倒れてしまったら、その子どもはどうなるのか。コンロの火に指を差し込みたくなるのと同じような気持ちになる。屋上のフェンスに登って少し身を乗り出して吹き抜ける風を受けてみるだとか、そういうのと一緒だ。
 決して実行はしないけれど、どうなってしまうのか興味はある。その興味はやけに残酷で、後先がない。構ってほしいと臆面もなく言える春水の彼女っぽさは幼児性にも思えて、初めは疎ましく感じるかと思ったけれどそんなことはなかった。子供を抱くのと同じ気持ちで、ただじっと長すぎる爪を見つめていると、控えめに俺を呼ぶ声がする。

「爪、伸びたんじゃないのか」
「切らなきゃ、明日切るよ」
「うん」
「もう夜だから、明日」

 言い訳なのか、本気なのか分からない声でそう言って手が離れていく。
 爪が短くなったとしても春水の手は変わらず小さく、手首は俺の指先で作る輪にすんなりと収まる。恐らくは骨自体が細いのだ、浮き上がった鎖骨がちらりと見える丸首のTシャツ、つるりとした、何もない首筋。
 そっと自分の指先を彼女の首に押し当てると、首筋も指先と同じくらいに冷えていた。彼女の喉がゆっくりとなだらかに一度動くのを見届けると、笑みが自然と零れてしまう。
 砂糖菓子か雪の結晶か、ストーブに置いたらぐったりと融けて消えてしまう春水の姿がなんだか自然と想像できた。現実では、けろりとした顔で可可か奶茶か何かしらの甘ったるい液体を飲みながらひざ掛けで脚を覆って「あったかいよ、风息」と言うはずなのに。

「そういうの、結構気にするんだな、迷信とか」
「気にするよ、ビビりだから」
「ビビりなぁ」
「え、ビビりでしょ」
「自分で言うことでもないと思うけどな」

 冷えた手を温めてやりたいと思うのと、白い首筋に齧り付きたいと思うのは、多分、同じ気持ちだ。
 結局はどちらも行わない俺はただ手を離して、肩と肩をくっつけるように身を擦り寄せた。彼女の髪が俺の首筋を上質な刷毛のように何度も撫でてゆく。真っ黒なテレビ画面を見つめながら、俺の仕事の話をして、彼女が友人と訪れたスイーツビュッフェの話を聞いた。
 ふと、あの夢のことを思い出す。白い衣が折り重なる繭のような空間、時折聴こえる木々のさざめき、向こう側にいる誰かの影。泣いているように見えたあのひとは、もしかしたら彼女だったのかもしれない。それならば、彼女はなぜ泣いていたのか。何か、重要なことを忘れているような気がする。
 いつか何かが破綻する時に、彼女の手をあたためることが出来ないならば、多分俺はもうひとつの、均衡の取れた関係では踏み出せない何かをしてしまうのではないか、と思っていた。
 今までの人生でも清く正しく愛することが出来なかったのならば、春水にもし執着したままこの安寧が失われた場合、俺は人生で指折りの残酷さを如何なく発揮するのかもしれない。