慈爱



 にゃあ。
 胴を擦りつけながら足元にまとわりつく猫をそっと避けて、初めて訪れた公園に足を踏み入れる。喵と鳴きながら後を付いてくる猫には気づいていない振りをした。
 肌に触れる空気はまだ少し冷たく乾いていて、冬が過ぎたばかりの眩しく白む日差しと相俟って、どこか突き放すような雰囲気がある。未だ着慣れない黒いワンピースの裾と羽織ったカーディガンが少し強い風に煽られて、腕に抱えた花束の前で軽やかに揺れた。甘い香りは風が吹いても掻き消されず、鼻腔を擽るように漂ってくる。
 可愛らしい山吹の色合いの、蝋梅の花だ。中国では比較的ポピュラーなものとはいえ、およそ手向けの花に似つかわしいとは言い難い。餞の意も含んでいるとはいえ他にも手向けに相応しい花は幾らでもあっただろうに、一体何を思ってこの黄色を選んだのかは私自身もよくわからなかった。妖精が営む花屋の前、気づいた時には既にそれを指差していて、綺麗にラッピングされた花束をこちらに差し出しながら店員が柔らかな笑みを湛えていたのだった。

 建築途中だったビルを巻き込むように枝を伸ばしている、この公園の象徴ともされる巨大な樹。周囲よりも少しだけ浮いているように見えるのはわたしの思い込みだろうか。他に花が手向けられたような痕跡はなく、ただひっそりと生前の狡猾さなど窺わせず穏やかに佇んでいた。そんなはずはないのだけれども、郷愁に駆られる中にもなんとなしに傲慢不遜な面持ちが感じられて、上にと伸びた枝葉を見上げて眺める口元に薄らと苦笑が浮かぶ。芝の上に膝を着いて屈み込んで、山吹色の花束を樹の根張りにそっと置いた。

「……风息」

 ──公園に、なったんだ。
 冰云城から釈放されて暫く経った頃。洛竹からそう聞いた時、未だ囚われているのも取り残されているのも、きっと私だけなのだと知った。

 まだ、私たちが龙游に棲んでいた頃。工業時代を迎えた折り、都市が広がり始めて森が消え始めた時の話になる。木々が伐採されて山が破壊されて、たくさんの妖精が離れていった。都市の発展と反比例するように霊質は消えていき、次第に新たな妖精が生まれることも難しくなった。
 风息は、山の神様が憤怒しているのだと人間達に伝えたかった。今まで自分達が受けてきた報いだと言うように人工的な建物を次々に破壊して、中には怪我を負った人間もいたけれども、決して死亡者は出さなかった。
 正直なところ、风息は人間を殺すことに興味はなかったし、その生死にも頓着していなかった。傷つけることができたとしても殺すことはできなかったのは、そうしても意味のないことだと分かっていたからだ。全ての人間を恨んでいるわけではない。意味があるならば、或いは殺すこともできただろう。それでも、洛竹が人間の死を嫌がることを知っていた。

 洛竹はまだ若いし、情が厚いうえに優しいから、思うところがないわけではないのだろうけれども、少なくとも他を害することを望むような思想を持つ子ではない。今は紫罗兰と呼ばれる花の妖精が営む花屋を手伝っているらしい。少し話したところ元気そうだったし、虚淮と天虎には暫く会っていないけれど、恐らくは息災だろう。阿赫と叶子はどうだろう、あのふたりは元々人間に紛れて生活するのがうまかったから、きっと、問題なく平穏に過ごしていける。
 そう、これからも、今までと殆ど変わらないように。
 ただ、そこにいたはずの、たった一人がいなくなっただけ。

「……风息。ねえ、聴こえる?」

 名前を呼んで問いかけてみたところで、言葉が返ってくるわけでも虚しさが拭えるわけでもない。前までは能力を使えば感知することのできていた彼が刻む心臓の鼓動も、今となってはもう聴こえない。

 冰云城に拘留されていた間、恐ろしいほど長い時を狂いそうなまでの静謐さに囲まれて、自身が選択して願った未来が叶わないことの絶望を痛切に思い知った。
 領域が消えたこと、风息の霊域の気配を失ったこと、そして人工建造物を覆うように伸びたあの大樹。それらの意味を漸く脳が理解した。いやに空気が澄んだ牢獄で、この世の悲しみを全て掻き集め、世界の終わりを見たような声で慟哭した。額を冷たい床に擦り付け、止めどなく溢れる涙が水溜まりを作ってもなお泣き続けた。勢い良く叩き付けた拳が石の床を打ち、皮膚が抉れて血が出ても気に留めなかった。
 結局のところ、間違っていたのは私たちで、命懸けの賭けに負けたのも私たちで、その末に风息は、龙游から離れないことを選択した。
 私は、未だにこのからだでこの世界を生きている。
 故郷の地で永遠に眠る、风息の命と引き換えにして。

「……どうして、置いていったの」

 もう二度と、あの微笑みを見ることはない。
 鋭い眼差しで前を見据える横顔も、手足のように樹木を操るその仕草も、彼の望む未来に在る楽園を語る時の希望を携えた瞳も。
 彼が彼本来の姿を見せる時、私の肌に爪を立てる時の強さや、眠りを誘発するような柔らかな体毛、喉の奥で鳴く声。触れ合ったあたたかな体温、滑らかな皮膚、意外に柔らかい藍色の長い猫毛、頬をなぞる時の指の動き、かさついた唇、抱く腕の力強さ。
 それら全てがもう二度と、戻ってくることはない。

「ねえ。私、言ったよね。ひとりで勝手に、どっか行かないでねって」

 あれは一体いつのことだっただろう。空惚けてみても、もう呆れたように言葉を返す声は聞こえない。
 彼が放った言葉の数々を、彼と過ごした日々を、私は今までただのひとつだって忘れたことはない。零れ落ちてしまうことのないように大切に囲って、どんなに些細なことであっても拾い上げて胸に仕舞い込んできた。いつか失うかもしれない未来を恐れて、いつか訪れるかもしれない孤独と寂寞に耐えられるように。いつか覚えるかもしれない空虚の穴を埋めるために、記憶の引き出しを彼でいっぱいにするために。
 龙游を離れてから、長きに渡る放浪を繰り返して、時折人間とも接触してきた。自分達以外の妖精に出逢ったこともあるし、人間について話したこともある。何十年という執着の末にどうして龙游に戻りたいと望んだかすらも忘れてしまって、それでもずっとやりきれない気持ちを抱えて、唯々戻らなければならないという使命感に近いものを覚えたのだろう。考えて、考えて考えて、そうして導き出した結論が故郷の呼吸になることだったのだろう。

「どうして、置いていったの……」

 彼の選択を否定する気は一切ない。彼を救いたいなどという傲慢な考えを持っていたわけでもない。私でもなくて、誰でもなくて、风息自身が選んだ未来だ。正しくない、わけがない。
 けれど、それでも。风息には、生きていて欲しかったと願ってしまう。どんなかたちでもいいから、生きて、私のことを視界に収めて、洛竹の種霊が咲かせた炎の花を見上げて、虚淮が出した氷で涼んで、天虎が焼いた肉を食べて、酒を飲んで、笑って、眠って、時折思い出したように触れて。そうして、生きて、幸せになって欲しかった。それが、彼の望む本当の幸いではないと分かっていても。

「行かないでって、言ったのに……!」

 けれど、それも。もう全て、叶うことのない妄想に過ぎない。
 荘厳な佇まいの樹幹に手を這わせ、そっと抱きつくように身体を寄り添わせた。頭上でさわさわと風に揺れる枝葉の音に鼻の奥がつんとして、目の淵に涙が滲む。知らず知らずのうちに溢れ流れて頬を伝う涙の跡が、外気に触れてひやりと引き攣れた。
 どうして、どうして、どうして。覚悟はしていたつもりだったのに、後悔などしないと決めていたのに、今となっては回答の得られない疑問ばかりが頭を過ぎって、もう、なにも考えられそうになかった。悲しみを取り払う術を持っているのはたったひとりだけだというのに、そのひとりだけが決して、私の前に現れてはくれないのだ。

「ひとりに……しないでよっ……!」

 どうして彼が、彼ばかりがこんな選択をしなければならなかったのだろう。忘れもしないあの日、小黑が言っていたように、人間に関わろうなどとせず、何処か忘れ去られた場所でひっそりと慎ましく暮らしていれば、或いはこんな結果にはならなかったのだろうか。
 故郷を自らの終の栖に選び取ったのならば、なぜ一緒に取り込んでくれなかったのか。どうして、私は、こうやって無様に生き残ってしまったのだろう。それとも、もう私の知っている风息がいないこの世界に取り残されることが、愚かな人間共を排して再びの楽園を、と無謀にも願った私に科せられた罰だとでも言うのだろうか。

「一度くらい、言わせてくれたって、よかったじゃない……」

 生きる意味ならば、見出そうとした。だからこそ、森で生まれたばかりの私を拾った彼に、私の命を拾った彼に、この身を捧げ彼の手足となることで自身の生きる意味にしようとした。館の呑気な連中が持つ陳腐な正義には決して頼らず、自分達の成すべきを成し、侵略と破壊を繰り返す人間達に切り捨てられてきたものものを救おうとした。
 それなのに、結局は风息でさえも目の前をすり抜けていなくなってしまった。彼が彼自身を許さなかったように、生きる意味を求めることすらも、私には許されないとでもいうのだろうか。

「……るって、……愛してるって、言わせてくれたって、よかったじゃない」

 まだ何ひとつ、伝えてなどいなかったのに。
 初めから、ずっと好きだった。生まれた時からあの時までずっと、私の生活に馴染んでいた风息のことが、私は初めから好きだった。けれど、当たり前のように生活に馴染んでいた彼は、当たり前のようにいなくなった。積もりに積もった恋心を置き去りにして。

「愛してる、のに」

 実らない恋心を吐き出すことが悔しいからでも、恥ずかしいからでも、情けないからでもない。ただ、戀しいから涙が出るのだった。いつまで経っても呼吸が乱れているのは、喉の奥に愛しさが溢れているからだ。いつまで経っても顔を上げられないのは、目の奥から溢れる涙が重いからだ。

「……风息が……、风息がいてくれたら、それだけで、よかったのに……」

 後悔をしている。生まれて初めて、抱えきれないほどの後悔をしている。その後悔の理由は愛で、たとえ恣意がなかったとしても、愛を私に教えた风息のせいで、私はまた後悔という感情を知ってしまった。なにもかも、教えてもらってばかりで終わってしまった。彼の手足として認めてもらえたのかどうかさえも、知ることは叶わなかった。理由などいくらでも衝いて出てくる。
 私が风息に抱いている感情は酷く歪で、或いは汚れていて、自分でも持て余すほどの激情を孕んでいて、言葉になど乗せられるものではなかった。言葉になるほど簡単でもなく、言葉に出来るほど整ったものでもなかった。けれど私にとっては、これこそが愛で、これだけが愛だった。だからこの気持ちを愛と呼ぶことを、誰にも咎めないで欲しかった。
 知らなかったのだ、伝えずに終わってしまうということが、どれほどの悔恨を呼ぶものなのか。
 そうして、後悔ばかりが募る全ての理由はひとえに、私が彼を愛していたからに他ならない。彼こそが、风息こそが、私の世界そのものだった。
 未だ止まらない涙を指先で払って、しゃくりあげながら縋りつくように樹幹に腕を回した。重い瞼を落として、空気と同化するようにそっと息を止める。

「ひとりは、いやだ……」

 世界を失ってなお、今更、どう生きろというのだろう。