そばにある体温



 秒針の付いていない掛け時計のせいもあるのだろうけれども、常世の部屋はいつも時間の流れが緩やかだ。大きな窓から差し込む光が観葉植物の緑をきらりとつややかに光らせて、空気までを明るく変えている。
 目の前で教員免許の過去問に取り掛かる常世のまるい頭部をぼんやりと眺めながらコーヒーを一口啜った五条は、その居心地のよさに小さく微笑む。いつの間にか、自分で淹れたものよりも彼女が作ったものの方が舌に馴染んでいることが嬉しいような、悔しいような。けれどもそれが愛しさによるものだとわかっているから、結局はどちらでも構わないかと結論付けて鼻に抜ける香ばしさに息をつく。
 ひとつひとつのことを共有していくことが、独占欲よりも穏やかにふたりの間を流れている。するのもされるのも苦手な執着は、独り占めしているということに置き換えた。そうして、論理的に考えるよりも、感覚として常世の存在を必要としているのならば、もう諦めるしかない。
 基本的に呪術師は忙しい。教師としての仕事も同時にこなしているのだから尚更だ。一般的な高校とは仕組みが諸々変わっているとはいえ、山積みになった教師の仕事と呪術師の任務とを絶妙なバランスで両立させている毎日のなか、常世とふたりで過ごす時間をひり出すのもそれなりに毎回苦心しているのも事実。だからこそ、教員免許を取って高専に務めたいと言った常世の言葉の奥に潜んだ内情を察した五条は常世を出来得る限りバックアップしてやりたいと思っている。そして、こうして術式を使うことなくゆったりと流れる穏やかな時間に身を沈めていると、疲弊しきった身体とこころの安寧をはかれる気がするのだった。
 す、と視線を移したのは単なるBGMとしての役割を果たしてたテレビ。特に見ているというわけでもなかったために電源を切ると、常世がふと顔を上げた。

「つけてても大丈夫ですよ」
「いや別に僕も見てなかったから」

 そうですか、と言いぱらぱらと本を捲り、人差し指で止める。その仕草が図書室で本を読んでいたあの頃となんら変わりなかったものだから、思わず目を細めた。
 気づけば高校で先輩後輩として切磋琢磨し過ごした時間よりも、呪術師として一緒に働く時間のほうが長くなっていた。そして今、新しい関係で過ごす時間が少しずつその距離を詰めていく。だからこそ一日一日が愛しいのだと気づけば、ただこうして見ているだけの時間さえも有意義に思えてくる。自分の思考が変えられていくことが面白く、視線を常世に定めていると気配を感じたのか目が合った。

「……なに?」
「先に見てたの先輩ですよね。気になって進まないんですけど」
「じゃあ教えてやるよ。本、貸して」

 ちょっとだけ嬉しそうに表情を綻ばせた常世に微笑みながら、そうして本を差し出すのかと思いきや椅子ごと自分のほうに寄ってきたことに少し驚いて二回ほど余計な瞬きを繰り返した。「ここなんですけど」と指差す常世に慌てて顔を近づけて文章を読むけれども、ちらりと視線を向けたすぐそばの瞳に気をとられてうまく頭に入ってこない。自分から近づけばこんな思いをすることなどないというのに、不思議なものだとまた別の思考が入り込みんで、なにやら急に恥ずかしくなっている自分に思わず口許を手で覆った。

「五条先輩?」
「いや……、なんでもない」
「あ、そうだ」
「あ?」
「いろいろ考えてて、五条先輩にちょっと前から言おうと思ってたんですけど」

 そう言うと持っていたシャーペンを置き咳払いをした常世に、五条も思わず居ずまいを正した。その後口を開いては閉じ、視線を剥がしたと思えば合わせたりと、落ち着きをなくした常世の姿を目前に「なんだよ、」と自分もまたほとんど落ち着けないまま急かすように尋ねる。そうして意を決したように瞳の色を変えるものだから、柄にもなく緊張を覚えたところで常世がゆっくりと口を開いた。

「悟さん、って、どうですか」

 一瞬、本気で息が詰まったのはそれが予想し得ない言葉だったからであり、その響きがあまりにも直接胸に響いたからだった。ぐわりと痛いほどに全身を満たしたその感情が嬉しさだということをうまく受け止めきれずに、額に手を当ててなんとか持ちこたえる。耳まで熱くなったことがどうかバレないでくれ、と内心祈った五条に「……先輩?」と心配そうに声をかけてくる常世がいっそ憎い。

「……お前ってほんと、そういうとこあるよね」
「え、っとあの。どういう意味ですか……」

 まずかっただろうか、と途端に声色へ憂慮を滲ませて不安を浮き彫りにするものだから、五条は言葉を返すことなくそのまま抱き締めていた。突然のことに驚いて強張ったのであろう身体に加減なしに力を込める。それで悔しさをどうにか発散させた五条は、勢いに任せたままキスをした。
 なんとかして口を塞いでしまわないと、とても処理できないこの喜びとくすぐったさを、言葉にしてしまいそうだった。

(んなこと、恥ずかしくて出来るかっての)

 ばさりとテーブルから落ちた本もシャープペンもノートも、もうどうでもいい。
 いつか必ず名前の下につけられた呼称を取り外し、自分もそう呼ばれることに慣れてやる。胸中にてひそかに決心した五条は、強引に常世の真っ赤になった首筋に顔を埋めた。

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