寂しがりの横顔



 切れ掛かっていた電気がようやくの思いで光を灯した。遠くから、どこかへ向かう車のエンジン音が轟いて、ブレーキランプの赤が暗闇をすこしだけ掻き混ぜる。空を見上げれば歪な丸がぼんやりとした白い光を放っていて、どこか季節を感じさせる風が頬を掠め、は髪を束ねていたゴムを片手で弾きながら裏口の鍵を閉めた。静けさがあるからこそ、発するひとつひとつの音がやけに響き渡る夜道の空気を吸い込んだ後、ポケットに突っ込んでいた手で事務室のドアを開ける。見えたのは、スタンドライトの光だけで浮かび上がる広い背中。タイミング良く耳に届いた「うん、そう、じゃあ後よろしく、お疲れ」の声は普段より少し間延びを抑えた仕事用の声。後ろ手で物音を立てないようにドアを閉めれば、ちらりと上目遣いがに向いた。特に意味のない会釈をひとつすると、画面に指先を滑らせた後携帯を仕舞った五条が返事をするようにひらりと軽く手を上げた。

「……飲み行く?」
「あ、はい」

 さすがに週末の疲れが出ているのか、ワントーン低いいつもの台詞を聞きながら、鍵を事務室の壁に備え付けてあるキーボックスのフックに引っ掛けた。背後で猫のように大きく伸びをしながらあくびのように吐息を漏らす五条の声が響いて、首だけ振り返ると目が合う。たった一歩でお互いの距離を縮めてしまう狭いこの空間は、にとって慣れないことのひとつだった。思わず目を逸らし、事務作業用の制服のファスナーに手を伸ばすと、それより先に五条の温度が背中に触れた。

「先輩……?飲みに行くんじゃ」
「そりゃ行くよ。お前、誘わないとすぐ帰るでしょ」

 肩に乗った細い顎と、まるで甘えるように伏せられた密度の高い睫毛と瞼がピントが合わないほど近くにある。するりとからだの前に伸びた五条の大きな手はの指先を退かしファスナーを下げきったけれども、スライダーを下止から外すことはなく、そのままごと包み込むように抱きしめた。
 ずるい、と思う。自分の気持ちを見透かしやっているのだと思えば尚のこと。そして悔しいとも思う。こうして触れてきては伝えてくる五条の温度が。ぐっと堪えた涙の出処もわからずに、は先ほどから首筋に当たる五条の髪に触れた。ふわりとしたすこし柔らかめの手触りは心地よくて、撫でることもせずただ触れていると、ため息とも取れる息が鎖骨に落ちる。

「……先輩?」

 そうして気の利いたことも言えずに、ただ未だに彼のことをそうとしか呼べない自分。胸に広がるのは痛みのような苦しさだった。けれども、押し潰される前に五条が顔を上げて「行くか」と口角を吊り上げてすべてを飲み込むようにして優しく笑うから、どこまでも許されていく気がして踏み出せない。そっと離れていく温度を追いかけるのは恥ずかしいし、受け入れるには素直になりきれない。未だに中途半端でしかない自分の気持ちの整理を付けられないまま、は靴を履き替え五条に手渡された鞄を受け取った。

 月が雲によって隠れた夜道は先ほどよりも深さを増していた。聞こえてくる音はものの十分で格段に減って、代わりにふたりぶんの足音だけが空気を震わせる。当たり障りのない、今日一日の事務作業の進捗や呪霊の発生状況を話しながら進む道は、には少々重苦しささえあって。一方で淡々としている五条の端整な横顔を盗み見れば見るほど胸になにかがつかえていくような感覚。肩が時折触れ合う距離で歩いているのに、傍にいるのに。するりと流れ込んできた苛立ちは、気づけばすぐ近くにまで歩み寄っていた。そして振り切りたいと思った瞬間、突然五条に手を取られて、肩がおおげさに跳ねる。

「なっ、……!」
「いいだろ別に」
「な、にがですか……」
「僕はお前とこういうことしたかったんだよ。……暫く付き合って」

 こちらを一瞥すらせず、一度も目を合わせないまま五条はそうしての右手をぐいと引っ張った。よろける前に身体は五条の腕にぶつかって、先程までどこか噛み合っていなかった歩幅がぴったりと揃う。強引に繋がれた手は、どちらかといえば掴まれていると表現する方が適切なほどに一方的で、僅かに痛みを覚えるほどの力加減だったけれども、はどうしようもなく唇から零れ出す笑みを抑えることができなかった。
 が迷ったとき、困ったとき。いつだって指針となり導を出してくれている先輩であり、大切なひと。変わらない絶対的な信頼を持っていると、あの時も、あの瞬間も思ったはずなのに。
 いつの間にか隙を見つけては入り込んでくる自分の弱さを戒めながら、それでも、やはり五条の傍にいれば大丈夫なのだということを改めて知ったは、なにも言わずにただぎゅっと五条の手を握り返した。