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それでもやはり、ずっとひとりで座っていたテーブルの向かいに五条がいるという光景には拭いきれない違和感があった。けれども。ずず、とちいさな音を立てて飲んでいるコーヒーマグを左手に、右手は玉子焼きを刺したお箸を待機させている姿はすっかりこの空間に馴染んでいる。こっちは未だに心臓が痛むというのに、とは悔しいから絶対に言いたくなくて、
常世は砂糖が大量に入れられて粘度を増した五条のそれとは違う、色の濃いコーヒーを口に含んだ。
「ん……おいしい」
「……お粥とどっちがうまい?」
「え」
鼻に抜ける香ばしさに思わず漏れた一言への質問に、内心どきりとする。それは、玉子焼きを咀嚼しながらやや上目遣いで聞いてくる五条の声色が、先程までとはほんのすこし違っていたこと。そして、そのお粥の味を残念ながらほとんど覚えていないということだった。
(せっかく作ってくれたのに……)
よくよく聞けば結構重症であったらしい自分の風邪は、記憶こそ失っていないものの前後の時系列がずれているうえに、味覚がほとんど働いていなかったようで。冷たいとか熱いとか、固いとか柔らかいとか。そんな漠然とした感想しか残っていなかった。
先程見たシンクにあった一人用の土鍋に、調理の後が見て取れるまな板や包丁、そして玉子焼きを作るときに気づいた別の卵の殻。きっと、心を込めて作ってくれたのだと思う。それだけで胸の奥にじんわりとあたたかなものが広がる。
「……お粥」
だからその言葉は、味ではなく気持ちの比重を考えて出した。突っ込まれたらどうしようという不安が声の音量を些か小さくしたけれども、「そっか」と満足げに返事をした五条につい、と下げていた視線を上げる。そしてぽつりと口をついていたのは、その表情に張りつめていた糸が緩んだからか。それとも、別に意味などは最初からなかったのだろうか。
「もっと、」
「あ?」
「いえ……もっと早く言えばよかったのかもしれません」
「お粥うまかったって?」
どこまでが本気でどこまでか冗談なのかわからないのは五条の性格らしいということは一応よく理解していたから、再び持ち出した自分の話題をどうするか悩む。このまま続けてしまえば、この穏やかな朝の空気を壊してしまうかもしれない。
それでも、今しかないような気がしていた。五条が自分に言ってくれたように、本当の気持ちをきちんと伝える瞬間は。
そっとマグカップを机に置く。ゆらりと立ち昇った湯気が空気に漂って解けていくのが視界に入った。
「子ども過ぎたって言ったら、先輩、許してくれますか」
それゆえにずっと五条の思いから逃げていたこと。逃げ続けても追いかけてくれているその優しさに甘えていたこと。どこまでも身勝手で自分勝手で、今でももしかしたら子どものままである自分に向き合ってくれていること。そして、結局五条に選択肢を委ね、頼り、わからないままにすべてを任せてしまう自分を。
初恋を長引かせたって良いことはなにひとつないと思っていた。変に執着して、離れたいのに、離れたらそこにはぽっかりと大きな穴が空いてしまって、そして自分は変わってしまう。燻り続ける愛着の行き場を無くしたままに、大人になってしまった。
時計の秒針が静かに時を刻んでいく。それはあの時と同じ速度で流れているはずなのに、やけに長く感じてしまう。降りた沈黙に耐えきれなくなった
常世が拳を握りしめると、その手に五条の雄頸な手が重なった。
「僕も、同じだから」
「先輩、」
「僕も子どもだった」
だからあの時のことを否定もしないし、なかったことにもできない。それでもいい?瞳で訊き、その答えが返ってくるまで。ようやく手に入れた
常世が離れていかないように五条は握っていた指を開かせ、絡めて握り締めた。
お互いがお互いのことを思いすぎていた。自分の感情を無理矢理に押し留めてまで、相手に一途すぎていた。会いたかった。触れたかった。抱き締めたかった。伝えたかった。傷ついて、傷つけて、でもその苦しみさえ、喜びと感じてしまうことが人にはあって。けれども今は違う。長い時間一緒にいることもできるし、大人に、そう、大人になった。だから、大丈夫だという自信と信頼間。包まれたのはそのふたつだった。
愛してる、そんな使い古された言葉を面と向かって言う勇気はまだないけれど、たとえ何度離れたとしても、またこうして歩み寄れる確信がある。
常世は五条の手を握り返し、笑った。
五条はそれに自分の方こそ許されたのだと思い、胸を突く優しさをしっかりと受け止めた。
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