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 微睡む意識で最初に知覚したのは、あたたかな体温だった。次に、全身を包み込むぬるま湯のような心地よさと、シーツの擦れる微かな音が耳に届く。カーテンを閉め忘れたために窓から眩い光が射し込んで、今が朝だということをに伝えていた。
 こめかみに指を当てて何度かぐり、と押した後、目が覚めた時から気づいていたのに、わざとその存在を見ないようにしていた人物をそっと窺う。密度の高い長い睫が伏せられて、いつもの稚気と、相反するような色気を纏った空色の瞳は伏せられている。それだけでこんなにも印象が違うのかとすこしだけ驚いた。白く透明感のある肌は、普段はヘアバンドや前髪で隠れる位置から覗く額の傷でようやく人間味を帯びて、それでも尚、嫉妬を抱くほど滑らかだった。昨日五条がそうしたように、そっと指先で触れてみる。そのまま髪をかき上げるようにして撫でると、無意識下の行動か背中に回っていた五条の手が力を増す。その力加減に、は胸の奥、心臓をそのまま握られたような甘い痛みを浴びた。触れた指先も、囁かれた言葉も、注がれた眼差しも、今こうして腕の中にいるという事実も。全てがすべて、あの時を肯定しているように受け止める自分の都合の良さだけを拠りどころに、五条を起こさぬように身を竦ませながらベッドから出る。床に落ちている自分の服を着る気にはどうしてもなれず、クローゼットから新しいものを取り出して着込むと静かに自室を後にし、音を立てぬように扉を閉めるとようやく息をついた。

(やってしまった……それも、二重の意味で)

 ずるりとそのまましゃがみ込み、誰に見られている訳でもないというのに赤い顔を腕の中に埋めて隠した。自分が、風邪を引いて熱を出せば記憶を全て吹き飛ばせる体質だったらよかったのに。そんな無意味な文句を、自分自身に何度も投げかけて、何度もそうではないことを恨んだ。バカらしくて、情けなくて、まったくもって手に負えない。再びついたため息にその思いを全て乗せて胸の重りを吐き出そうとしたけれども、それより先に背にしていた寝室の扉がガタン、と音を立てた。慌てて立ち上がり、思わずドアノブを握る。扉を一枚隔てたこの向こう側には五条がいる。とっさの行動にばくばくと心臓が早鐘を打ち、耳元で鼓動を響かせている。

「……?」

 どこか甘さを感じる掠れた声に、ぶわりと上昇する体温と、加速する鼓動。どこまでもわかりやすく感情を体現する自分に腹が立って、は「コーヒーいれてきます、」と叫ぶように言い放ってキッチンへ逃げ込むように走った。五条が持ってきてくれた薬で一晩で治ったのだから大した症状ではなかったのだろうと思いつつ、寝起きの身体には先程から刺激が強すぎた。もう、なにが要因でこんなにもふらついているのかもわからず、今度は冷蔵庫を背凭れにしゃがみ込む。
 正直、合わせる顔がなかった。今まで、およそ十年間、自分が五条に対してどんな態度をとってきたかを顧みて、その上で昨日のことを思い出せばそれは当然の結果で、はできることならば消えてなくなってしまいたいと痛切に思った。苦しさと恥ずかしさ、そして場違いにも嬉しささえ感じてしまっている現金な自分の神経にはもはや呆れるしかない。

「……どうしようもないな、わたし」

 呟きを象った瞬間、怒濤のように流れ込んできた後悔と嫌悪に大きくため息を吐く。ぐしゃりと前髪を握り潰して、後頭部を野菜室にぶつけたちょうどそのとき。視界に入ってきたすらりと伸びた長い足のその先、見下ろす鋭い眼差しと目が合っていた。あ、と声を上げた時にはジーパンだけを履いた上半身裸の五条がしゃがみ込んでと同じ目線まで膝を曲げて体勢を下げ、両手を絡めて膝へと置いた。そしてが居たたまれなさを感じる一歩手前。

「その状態でどーやってコーヒー淹れんだよ、お前は」

 手刀でのチョップを食らい、見事にそのタイミングを逃した。そういえば昨日もこんなことをされた気がする……と、そこは曖昧な記憶のまま額を押さえて「痛い……」とぼやくと、いきなり柔らかな眼差しに変えた五条が手を差し伸べてくる。一瞬迷ったその隙に、既に腕を取られ立たせられていた。ぐんと近づいた距離にひとつ笑みを浮かべて「僕が淹れた方が数倍うまい」と言うその調子が、の胸になにかを灯した。痛いわけでも、苦しいわけでもない。ただそれまで居座っていた凝りが溶けていき、そこに新たになにかが生まれたような。具体的になにをどう、と説明できないもどかしさよりも五条が触れた指先に意識が移って、なにひとつわからないままはその疑問を解くことをやめていた。

「先輩……わたし、」
「ああ、お前は……そうだな、玉子焼き作ってくれりゃいいから。どうせ朝そんな食べないんだろ」
「……そうじゃなくて」

 きっと、その答えを知っているのは、この人だけ。そうでないと嫌だ、と無意識に胸中で紡いでは問い掛けるような視線を五条に向けた。
 また逃げてしまうかもしれないし、誤魔化してしまうかもしれなかった。けれども、不思議と怖くはなかった。それは五条も同じなのか、コンロにかけようとしていたやかんをシンクに置くその表情はひどく穏やかなものだった。

「悪いけど、僕はもう戻れないよ?」
「……はい」
「ずっと欲しかったのは事実だし、そうなったのも事実だ」
「……、はい」
「そんで、誘ったのはお前だしね」
「そ……れは、違くないですか」

 なんなのだろう、この空気感は。もう昨日までとは違う関係のはずなのに、驚くほど自然で。もしかしたら、昨日までの関係よりもずっと自然な気さえして。
 自分でもよくわからない不思議な感覚がを支配していく。楽しそうに目を細めて指折り続ける五条が果たしてそのことに気づいているかどうかもわからず、最後に、と言葉を区切った声に耳を傾ける。

「僕はお前が好きだった。高校の時から、ずっとね」

 静かに耳朶を打ち、心を打った。今まで散々ふざけてからかわれてきた言葉たちとはなにもかもが違う。その重さも、意味も、に与える衝撃も。真っ直ぐの剛速球で投げられたそれを真っ直ぐに受け止めざるを得なかったの涙腺はそうして緩み、それでも相変わらずの強がりが五条から顔を背けさせた。それすらも、きっと彼は全部わかってくれている。ククッと喉奥で笑った五条が、抱きしめるよりももっと気軽に触れてきて、は潤んだ目で睨みつけた。

「もう、台無しですよ、わたしの気持ちが」
「うるさい。こうなるんだったら僕はもっと最初からそうしてたっつーの」

 あーあ、無駄な我慢したなあ、とほとんど独り言のように呟いて、包み込むように抱き締めたの背中をゆるゆると撫でる。その掌の感触とリズムに、ふわふわした心地のよさとどうしようもないくらいの多幸感を感じて、だから、素肌の五条の肩に触れることも怖くはなかった。