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 思っていたよりも食欲があったこと、薬を飲む様子にも先ほどまでの危うさはなく、五条は再び布団に潜るを見て心中でひっそりと胸を撫で下ろした。横になりながらも五条から目を離さないに、食器の片づけを後回しにしてベッドに手をつきながら視線でどうした、と尋ねるとおずおずと布団で顔を半分隠したがもごもごと口を開く。

「あの、任務は……」
「ああ、七海に全部任せてきたから大丈夫」
「そ、ですか……あ、あと」
「ん?」
「……どうやって入ったんですか?」

 至極言いづらそうに、それも少しばかり頬を染めながらの問いに、五条は思わず噴き出した。どんな想像を働かせたのだろうかと思うとそうせずにはいられず、苦い表情を作ったに「ごめん、」と笑いを堪え切れないままに答える。ふい、と顔を背けたのはそんな五条へのせめてもの抵抗だったのだろうけれども、思わず追いかけてベッドに乗り上げた五条に、お互いがしまった、と口中にて呟いたのは無意識だった。

「……せ、」
「お前が入れたんだろって」

 言いながら熱い額を軽く叩く。「痛い……」とぼやくを他所に、頼むよ、という乾いた声が脳に響き渡って、息苦しささえも感じながら、けれども、との距離を離せない自分を恨むしかなくなった。
 伊地知と七海に連絡を入れた後、ドラックストアで風邪薬だけを買った五条はの家へ急ぎインターフォンを鳴らした。何度押し、何度ドアノブを捻ったかわからない程度には必死になっていたように思う。そうして、ようやく開いたドアの隙間から覗いた荒い息遣いの彼女と顔を合わせる前に、がくん、と電池の切れた人形のようには五条の胸元へと倒れこんできた。思わず受け止めた重みと熱さに、救急車を呼ぶという手段の思考も吹き飛んで、を横抱きにして、もつれる足で靴を脱いで部屋へ上がりこんだ。ベッドに暦を寝かせてから、その荒い呼吸が収まるまで。五条ができたことと言えば顔や首周りの汗を拭い、空調の調節をし、そしてただ手を握ることだけだった。

(……とは、さすがに言えないよなあ)

 しかもその手を握っている間に自分が半ば涙目になっていたとは、とてもじゃないが言えやしない。墓まで持っていくしかない、と結論付けて五条は怪訝そうな眼差しを向けてくるの頭を撫で、黙ることを決めて口を噤んだ。
 絡まる視線の熱さは全て風邪のせいにして。触れる温度は、高校からの腐れ縁という関係に置き換えて。そうすればきっと、失うものはなにもない。この立ち位置から自分がずれることも、の存在が変化することもない。それ以上、望まなければ、それでいい。

「……よし、じゃあ僕これ、片付けてくるからちゃんと寝とけよ?」

 ただ、いくら理屈を捏ねくり回してみても、それがいつまでも通用するほど単純にはできていないのが感情だということは、痛いほどに知っている。うとうとと微睡んで瞼を閉じかけたにそっと言い聞かせて、極力物音を立てないようにお盆を持ち、そして立ち上がろうとした時。

「……かないで、……」

 ちいさな声と共に、掴まれたTシャツの裾。くん、と引っ張られた力は然程大したことはなかったというのに、五条はそのままぼすりとベッドに腰掛けていた。
 熱によって潤んだ目は、相変わらずなんの濁りも淀みもなく自分を見詰めてくる。しっとりと上気した頬に堪らず手を伸ばしてしまった五条は、触れてから思わず眉間に皺を寄せた。風邪を引いて、ひとりぼっちの寂しさのあまりは自分を求めている。そこに、五条が持っている感情のひとかけらもあるはずがない。ただ、子どもが親にそうするように駄々を捏ねているだけだ。わかっている。全部、わかって、いる。

「五条先輩、……行かないでください」

 けれども。その一言は絶妙なタイミングで発せられ、五条の思考を全て遮断した。今までの覚束ないそれらとは異なる、やけにはっきりした口調。握る手にもなにか違う意図を見つけ出し、尚も視線は熱を孕んだまま。なによりも、あの時と同じ呼び名は、五条が今日まで胸で蓄積させてきた思いの蓋を開ける、たったひとつの合言葉だった。
 踵を返す。……そんなこと、できるはずがなかったのだ。

「いつまで……僕は、お前の先輩でいなきゃいけないんだ、」

 決壊したこの感情を止める術など、知っているはずがなかった。気づけば布団を乱暴に引き剥がして、強引にの頭を固定した後、ほとんど押し付けるようにして唇を重ねていた。当然のように熱い皮膚を奪い取ってしまいたくて、驚きからか薄く開いた唇の隙間に舌を捻じ込むと苦しそうな吐息がから漏れる。けれど、その息さえもただ熱いばかりで、五条を止める材料になりはしなかった。ただただ拍車だけが回り出す。そうして、彷徨うようにしていたの手を全ての指を絡めるやり方で縛りつけ、シーツに縫い付けてからようやく顔を離した。

「せ……、ごじょう、さ」
「もう無理だ。……ごめんな、
「ご、っ、ん……、」

 やっぱり、いい先輩にはなれないみたいだ。
 これ以上言葉にしてしまえば、胸の痞えが飛び出してをひどく傷つけてしまいそうで、五条は再び唇を塞いで押し留めた。お互い薄手の布同士が妨げるそのもどかしい温度は五条の劣情を加速させて、首筋に顔を埋めながらの衣服を捲り上げる自分の右手に気づく。そうして、いよいよ後戻りという言葉がその意味をなくす。熱に浮かされて、満足に抵抗もできない人間相手に、だ。

「最悪だ……」

 それでも、もう止めることのできない自分が、一番。
 の声が耳元でなにかを叫ぶ。五条はやめるわけではないということを示唆する程度の距離を開け、その顔を覗き込んだ。米神を伝う一筋の涙、それすらも、もう指で拭ってやるようなことはできず、舌で舐め取るとびくりと身体を震わせたは、恐れるものを見ないように目をきつく閉じた。寒さからでは決してないであろう震えに、まるで檻を作って囲うようにして顔の両脇につけた肘を僅かに浮かす。締め付けられる胸の奥底と、喉。昂ぶる感情は未だに出口を探して五条の中を蹂躙するように荒れまわっているけれども、長く吐いた息になんとか一時の余裕を作り出した。

、……僕さ、」
「……なにも、言わないでください」

 無力だった。の前で、五条は全てにおいて無力であることを今、ようやく理解した。
 つらい体勢のまま、首だけを持ち上げて柔らかく唇に触れたの温度に五条はその思いを抱いたまま、ベッドへと沈んだ。