自らの爪を目に痛い、鮮やかなブルーに塗りかえてしまった野薔薇が笑った。爪に筆が乗る瞬間ひやりとするものだから、意図せずして、侯隆の指先が震えるのだ。
指の爪を噛むのは悪癖である、それは当の侯隆も重々承知している。幼いころから大人に注意され、呪術師として就職した後は猪野や七海に注意され、それでも二十歳を過ぎた侯隆の悪癖は治らなかった。いつから始まったかすらわからない。それほどまでに長い年月をかけて染みついた習慣を矯正することは、ひどく難しい。侯隆自身はもう治らなくたっていいのでは、と半ば諦めていたのだ。しかし近頃口うるさく注意しなくなっていた猪野に代わり、通常他人にあまり干渉しない野薔薇が、侯隆の悪癖をやかましく咎めるようになっている。
爪を塗れば、口に入れることを自然と躊躇うらしい。夕食の後しばらく自室に籠っていた野薔薇が飛び出してきて、侯隆にそう言ったのだ。彼の爪は数日前はビビットカラーの赤に、そして昨日あたりからはひどく発色のよい青色に塗られている。野薔薇の私物であるエナメルの色味は、最近流行りのこっくりカラーやらくすみカラーやらよりも遥かにはっきりしたビビッドの方が多いようだった。思わずその爪に目をやった侯隆、それに気づいたのか野薔薇は「今回はやさしい色にするから大丈夫よ」と口の端を上げて笑う。
「間宮さんはじめて?」
「男がふつうに生きてたらなあ、爪なんて塗らんよ」
ソファにぐったりと身を沈めた侯隆が気だるそうに返すと、
「最近はジェンダーレス男子ってのも流行ってんのよ」
野薔薇は最近の流行にとんと疎い侯隆に言い聞かせるような声色で呟いた。平生口の悪さが先行して体内に潜む優しさや世話焼きな部分をあまり外に向けない彼女だけれども、時折こうして滲み出るものがある。彼女よりよっぽど歳上の侯隆に対して使われることのない敬語を強要する気は微塵もなかった。そもそも侯隆よりも更に歳上で呪術師としての等級も上である五条にすら彼女らはため口なのだから、指摘するべくもない。
談話室のソファに浅く腰かけて、野薔薇は侯隆の手を取っている。ベースコートがすっかり乾いて、塗られたのは透明で薄紫色のネイルエナメルだった。ボトルに入っている時こそ藤色のような薄紫をしているけれども、爪についてしまえば無色も同然。しかしいやに光沢をもった自分の爪を、侯隆はまじまじと見つめてひそかにため息をついた。骨ばった指の先、右の人差し指、中指の爪だけは不格好にギザギザとしている。整っているところなど久しく見ていない。
「ガキの頃からの癖になってるんでしょ。爪を噛むのって。甘え下手だとか、ストレスが溜まってるとか、大人になってからも続いてる人って深層心理で何かがあるみたいだけど」
左の爪を塗り終えた野薔薇が言った。
「なおらなかったんだよなあ、結局」
侯隆がそう呟くと、
「今から直すのよ」
爪やすりを手にした野薔薇は語気を強くした。
彼女は器用だ。そうこうしているうちに右の爪もすっかり塗り終わったらしく(先述したとおり無色透明なものだから、侯隆にはそれが完成したのかどうかなどわからない)、野薔薇はネイルエナメルのキャップをきつく閉めた。ようやく解放されると思いきや、彼女はまたひとつボトルを取り出した。「まだあんの」辟易した風に問えば「トップコート」歌うように言った。
「それ、必要?」
「色艶が良くなるの」
侯隆が眉根を寄せて見やった野薔薇の、普段は剣呑な光を灯されることが多い瞳が目を見張るほど輝かしかった。無色透明、爪の色そのままのところに色つやもなにもあったものではない。侯隆はそう思ったけれども、なにをしなくてもすこし開いたままになりがちな唇を、ひどく楽しげな野薔薇に勘付かれないように、そっと結び直した。