「お、見て。喧嘩してる」
「ほんとだ。あれは絶対彼氏が悪いね」
「いやいや。十中八九彼女が悪いって」
「なんで?」
「そっちこそ」
巨大なスクランブル交差点の隅で口喧嘩をしているカップルが目に入って、常世と二人であれこれとヤジを入れながら顛末を見守っていると、男はスクランブル交差点の向こう側の歩道へ、女は傍の地下鉄入口へと潜ってしまった。あーあ、やっちゃったね。カフェアメリカーノを啜りながら常世が嘆く。僕もそう思った。例え自らに非はなくとも、男ならばまずは手早く「ごめんなさい」だ。女は大抵その一言に満足するのだから。
「……世の中こんなに人が溢れてるってのにさ、」
「うん?」
「常世はなんで僕を選んじゃったの」
「えー……、気づいたら勝手にそこにいたって感じ……?」
「なにそれ」
キャラメルフラペチーノをずるずると吸い上げながら見下ろす目の前のスクランブル交差点はドラマに溢れていた。常世との待ち合わせによく訪れるこのカフェは大きなビルの一角に入っていて、敷地面積こそ狭いものの二階の窓際のカウンター席は一面ガラス張りになった窓に据え付けられていて、駅前の様子がそれはそれはよく見える。休日の昼過ぎだと言うのに鬱々とした空気を辺りに撒き散らしながら歩いているスーツの男、明らかに親子でも恋人でもなさそうな成りをした若い女の子と中年オヤジ、ばかでかいギターケースを背負って速足に人ごみをかき分けて歩く小柄な青年。
「……僕は施錠してた金庫ぶち破られた気分」
「えー、なに?わたしは強盗かなんかなの?」
「似たようなもんでしょ」
「いや、どこが?」
信号が青に変わるたびに、うじゃうじゃとおびただしい数の人が信号を渡って思い思いの場所へと進んでいく。芋の子を洗うかのように混雑する交差点のなかに知っている顔などないのだけれども、いやもしかしたらひとりやふたりくらいは知り合いが紛れていてもおかしくはないのだけれども、どちらにせよここからではいちいち人の顔など判別できない。とにかく知る人のない交差点の混雑だけれども、その隅々に目を凝らせばひとりひとりのドラマが見えるようで、なんとなく目が離せなくなってしまう。
「選んだよ」
「は?」
「悟くんといることは、選んだ」
それが答えだとすれば、それは告白でしかなかった。
僕は密やかに舌の端を噛む。なにかがうるさい、と耳を澄ませばそれは自身の心臓の音だった。鼓動する心臓は正直だ。この恋を決して見誤ることはない。
僕も、そして恐らく常世も人間観察をしているつもりはない。たまたま点けたテレビで存外面白い映画がやっていて、どこの国の言葉かもどの年代の作品かも分からないままについつい見入ってしまう、強いて言えばそんな感覚に似ている気がする。ハッピーエンドが約束された出来合いのドラマチックかもしれない。どこまでも救いのない、いっそ喜劇かと疑いたくなるような悲劇かもしれない。
「…………そういうことさあ、言うのは家でにしろよ」
「悟くんが話振ってきたんじゃん、なんで照れるの」
「うるさいな」
見ず知らずの他人の心情を、会話を、人生を一方的に仮想してその全てを愛しく思う。例えば、今こうして流れるように取り留めのないふうを装って、どうしようもなく愛と告白の意図を含んだ会話をしながら街を見下ろしている僕たちを、別れ話をしているカップル、と捉える人もいるかもしれない。他人に向ける人の目とはそういうものだ。
「あ」
「悟くん?」
思わず声を上げてしまった。頭ひとつ飛び抜けた、背の高い男と向こう側からやってきた青いワンピースを着た女がすれ違い、そして互いに同じタイミングで立ち止まり、そして同じタイミングで振り返った。表情こそ見えなかったけれども女の仕草は懐かしい友人に偶然再会したかのようなもので、男もまた彼女に応えるように身振り手振りを添えてあれこれなにか告げた後に、彼女は向かっていた方向へ、男は自らが歩いてきた方向へ、ふたりで並んで歩いて去って行った。ありがちなラブストーリーの序章かもしれないその光景にどこか胸が高鳴る。僕はガラス越しにコーヒーを啜っている傍観者でも、彼と彼女は今、激しく幕を開けたドラマの主役だ。
「なーんか、いま、いいもん見たかも」
「えっ、なに?路チュー?どこ?」
「……お前のいいもんってそれなの」
ガラスに近づくように前のめりになって目下の交差点に目を凝らす常世に呆れながらも、数時間前、このカフェに辿り着くために交差点を渡っていた僕をこのカウンター席から見下ろしていた人はどう思っただろうか、と考える。数時間前の僕を、今の僕が見たらなんと思うだろうか。きっと、ひどい間抜け面だと思うに違いない。常世との待ち合わせに胸が逸る、情けない男の顔だ。
「さて、そろそろ行こうか?飲み終わった?」
「うん」
「どこ行く?」
「まずはマークシティかな」
そして、常世の手を引いて交差点を渡る。数々のドラマに飲まれながら、けれども自らのドラマの主役を張りながら。