新聞でも雑誌でも、とにかく活字を読み始めると周囲のものものが一切見えなくなってしまう。今日も今日とてお風呂場でバスタブに身を沈めながら『純粋理性批判』を読み耽っているうちに、どうやら随分な時間が経ってしまっていたようだった。
「ねえ。常世ー、まだ?」
バスルームの擦りガラス越しに五条悟の形を縁取る影が映って、こんこんと手の甲が扉をノックした。「っひえ、」びっくりしすぎて喉の奥から引き攣った変な声が出た。悟くんに聞かれてたら死ぬ。ずるりと背中がバスタブの縁を滑って顔の半分がお湯の中に潜る。ついでにつるりと手から滑り落ちた『純粋理性批判』はどぼん、とバスタブへダイブし見事水没した。う、うわああ買ったばかりなのに。
「常世ー、常世ちゃーん、僕明日早いからもう風呂入りたいんだけど」
どうやらわたしの長風呂に業を煮やして様子を見に来たらしかった。かあっ、と一瞬で全身に血が巡る。薄い擦りガラスのドアを一枚隔てただけの脆弱なバリケードの中、無防備に素っ裸を晒しているのが恥ずかしくて仕方がない。悟くんの様子が普段通りの落ち着き払った様子だからこそ殊更に狼狽えてしまうのだった。バスタブへ沈んだままふよふよとふやけたページを揺蕩わせている哲学書なんてそっちのけで慌てて立ち上がると、ざばりとバスタブの中で漣が立つ。
「ご、ごめっ!もういまあがるからリビングで待って――」
と、そこまで口に出した瞬間、ぐにゃりと視界が歪んで傾いで、身体が急にずしりと重たくなったような気がしたかと思うやいなや、ごん、と鈍い音がバスルームの床を打った。ひぎゃ、と情けない呻きが喉の奥から漏れる。うわあなんかすっごい痛そうな音がしたなあ、と暢気にそう感じたけれども、痛そうな音を奏でたのは誰でもなく他でもない、わたしの額だ。バスタブから出ようとして急に立ち上がったために、立ち眩みを起こして間抜けにも前のめりに倒れ込んだのだった。
「……はっ?ちょっと常世、なんか今すごい音したけど?なに?大丈夫?」
浴室内での惨劇を察知してしまわれたらしい。やや焦ったような声を上げて悟くんは一切の躊躇いもなく浴室のドアを開け放った。ひんやりした脱衣場の空気が彼の気配と共にするりと滑り込んで来て、その心地よさにうっかりほだされかけそうになったけれども、それはそれだ。なけなしの意識と体力を振り絞って、自分の裸体を隠すように背中を丸め、母親の胎内に戻ったような格好で、必死に悟くんから顔を背けた。
「や、だめ。見えちゃう……」
真っ赤になって、ぎゅうっと目を閉じる。付き合いだしてはや三ヶ月。キスもまだだというのに、こんなにあられもない姿を見られて平静でいられるわけがなかった。
「また湯あたりしたんだろ。熱い風呂に長時間入るなってあれほど――」
言いながら、気忙しく悟くんがバスルームの中に踏み込んできた。わたしは「やだってば」と一層かたくなに身体を丸める。立ち上がって悟くんに回し蹴りをくれてやりバスルームから追い立てる、という脳内で組み立てた抵抗の手段を実際に講じることはできなかった。
「わかってるって、恥ずかしいんだろ。見ないからじっとしてて」
かけているサングラスが湯気で曇ることなど気にも留めない悟くんは床に踞ったままのわたしの前に膝を突くと、がばりと着ていた黒のTシャツを脱いで上半身の素肌を晒す。う、うわやだなんで脱ぐのちょっと待って全然心の準備とか、と内心でパニックを起こしている間に、肩を抱いて身体を起こされ、頭からずっぽりと悟くんの匂いがするTシャツを被せられた。
「お前さあ、これで何度目だよ。学習しないな」
曇ったサングラスの奥から覗く空色の綺麗な瞳が僅かに細められる。かたちのいい眉根を寄せて、たいそう呆れたような口調であったけれども、それはどこか、ばかな子に対する"可愛い"をふんだんに感じさせる口ぶりだった。190cmちかくある悟くんが着ていたものだから、まるでワンピースのようになっているTシャツに包まれたわたしを軽々とお姫様抱っこして、悟くんは湯気のもうもうと立ち込めるバスルームを後にする。
「ご、めん」
恐らくわたしの顔は逆上せた熱と羞恥で真っ赤になっていることだろう。悟くんの胸の中でぐったりと目を閉じた。ぱたぱたと前髪から滴った雫がTシャツに染みを作る。
まったくほんとうに、これで何度目だというのだ。
同棲を始めてわずか二週間ばかりしか経っていないというのに、お風呂場で倒れるのは既に三度目だ。一度目は本当に風呂場で倒れて意識を失ってしまい、仕事から帰ってきた悟くんに発見され可及的速やかに救出してもらえなかったら今頃干からびていたかもしれない。二度目は今回と同様に、わたしの長風呂を見兼ねて様子を窺いに来た悟くんの姿に慌てて急に立ち上がって立ち眩みを起こしたのだった。学習しない、と言われてしまっても仕方がない。
元々が虚弱体質なものだから、熱い風呂に長時間入ってはいけないと何度もきつく言われていたけれども、生まれも育ちも月島のわたしにとって、ぬるい風呂など江戸っ子のDNAがゆるさねえぜべらんめえ、という話である。
ああ。神様仏様。まだキスもしていない相手に三度も裸を見られてしまいました。
おおきな革張りのソファに横たえられて、キャンパスノートでぱたぱた風を送られながら、わたしは部屋の中のどこかに穴があったら飛び込み競技の選手の如く頭から入ってやろうと、そんなことばかりを考えている。
「そういえば僕たち、同棲して二週間くらい経ったよね」
と、無言の気まずさを埋めるように悟くんが話しかけてくる。
「ん、うー」
目頭を腕で覆い、生返事を返す。キスさえもしたことのない相手と同棲だなんて、よくよく考えてみればおかしな話だ。
付き合うことになった大元のきっかけも、元々はお互いの家が勝手に取り決めた許嫁であったからで、それは一般的な恋愛からは程遠く、どちらかといえば特殊な類に振り分けられる。幼い頃から許嫁の存在自体を仄めかされてはいたけれども実際に会ったことはなく、そもそも高専に入学するまでお互いに認知すらしていなかったのだ。初対面時に自己紹介として名乗ったとき、わたしはようやく彼が件の許嫁、所謂婚約者である五条家のご子息だということを知った。
そこからどうやって付き合うに至ったかの経緯はあまりにもぐにゃぐにゃと曲がりくねった獣道のように紆余曲折を経ているから割愛するけれども、高専を卒業する間際にお互い合意の元付き合い始めたのはわりと記憶に新しい。かたや最強の特級呪術師様、かたやほぼ術式の稀少さだけで登り詰めた一級呪術師のわたし。どうせ最終的には結婚するのだから二度三度と引っ越しをして余計な手間とお金をかけるよりも最初から一緒に住んでしまえ、という、わたしたちが付き合うに至るまで相当に業を煮やしていたらしい硝子ちゃんの鶴の一声から始まった話だ。提案に対して比較的前向きだったのは悟くんだけで、わたしも結局はあれやこれやと流されて今に至るわけだけれども、それがやや惰性じみていると言われてしまえば否定はできない。
もちろん婚儀前なので寝室は別だし、どちらかといえば同棲というよりは共同生活、しかも家賃や光熱費は折半どころかそのほとんどを悟くんが負担してくれているものだから、家事全般をこちらが引き受けているとはいえ、なんだかわたしが悟くんのヒモで悟くんに養われているような気持ちになってしまう。いや、実際にうちの収入の八割方は悟くんだから強ち間違ってはいないのだけれども。悟くんの実力には遠く及ばないとはいえ、わたしだって一級の等級を持っている呪術師であるにもかかわらず、なぜか悟くんと付き合うようになってからあまり呪霊討伐の任務が入らなくなってきてしまった。それじゃあ普段はいったいなにをしているのかというのは、また別の機会にでも。
この歳までいまの一度も男の子と交際したことのなかった奥手なわたしに合わせて、悟くんはわざわざ互いの関係を深めるペースを極限にまで落としてくれているのだ。良く言えば純粋培養、身も蓋も無い言い方をしてしまえばただの臆病者な処女のわたしに。常世がその気になるまでのんびり待っとくよ、なんてへらりとゆるやかに笑って。彼だって健全な男の子だ、無理をさせてしまっている自覚はあるだけになんだか生殺しの現状が申し訳なくなってしまう。
「うう、ごめんね悟くん、またつまんないことさせちゃって……」
差し出されたポカリスエットを受け取りながら、ようやっと怠さが抜けてきた身体をゆっくりと起こす。ソファを占領するように横たえていた脚を座面から下ろすと、空いた隙間に悟くんが腰を落ち着けた。
「いいって別に、僕のカノジョだし。これが七海とか伊地知とかだったらほっとくけどさあ」
さらりと吐かれる台詞に、かあっと耳まで熱くなった。カノジョだって。悟くんのカノジョ。高校の四年間ずっと憧れてた人と、同じ部屋で肩を並べてソファに座っているなんて、未だに実感が湧かない。なんだか気持ちがふわふわしてしまう。まるで夢みたい。
「それよりも常世、おまえ大概にしろよ。毎回毎回風呂場で倒れてたら身持たないから。本読むのやめるか、お湯の温度下げろって」
呆れた表情を隠しもせずに咎めるような口吻で言われてしまったけれども、なにせ無理な話だ。なので、僭越ながら「無理です」ときっぱり断ったら、案の定悟くんは意外そうにかたちの良い片眉をぴんと跳ね上げる。恥ずかしがりやで口数も決して多くはないと自負しているわたしが頑として譲らないのが、お風呂の温度とお風呂での読書だった。
「だってほら、わたし、月島出身だし。先祖代々江戸っ子だし。もんじゃ焼きと風呂が命だから」
「もんじゃは関係ないだろ」
やや食い気味で突っ込まれてしまった。もんじゃ焼きはこの際関係なかった。
悟くんはすっと目を細めると胡乱げな顔をして、「すぐのぼせて倒れるくせに、今までどうしてたわけ?」と訊いてくる。
今まで実家で暮らしていたころは、いつも必ず家族の誰かと一緒にお風呂に入っていて、わたしの頬が火照って焦点がおぼつかなくなってくるのを家族が見計らってすぐさまお風呂から出されていた。銭湯も温泉も大好きだ。誰かとお風呂に入るのが当たり前だったから、悟くんと同棲するようになってから必然的にひとりで入らざるを得なくなったその場所に、心臓に降り積もる寂寞を紛らわせるために本や雑誌を持ち込んでしまうのは言ってしまえば仕方のないことだった。
「ふーん」
と、わたしの説明に気のない相槌を打ったかと思うと、悟くんは急に顔を上げて、事も無げに「じゃあさ常世、明日から僕が一緒に風呂に入ってあげるよ」
口に含んでいたポカリスエットを噴いてしまった。
*
「常世ー、早く入ってきなって、僕がのぼせるだろー」
バスルームから反響する声に、手の甲でこんこんとバスタブの側面を叩く音が重なった。急かされている。わかりやすく急かされている。タオルを身体に巻き付けたわたしはまるで痙攣しているようにふるふると身体を震わせながら悟くんの間延びした声を呆然と聞いているばかりだった。
今の悟くんは明らかに機嫌が良さそうだから、ここに来て「やっぱり無理です失礼します」と逃げてしまえばへそを曲げてしまうのは明白だ。普段はそれこそわたしにはもったいないくらいの優しくて優秀な恋人であるけれども、一度拗ねてしまうと損ねた機嫌を取るのがなかなかに厄介なのは残念なことに決して長くない付き合いのなかでもしっかりと心得ている。
だ、大丈夫、ちょっと恥ずかしいのを我慢すれば良いだけなんだから。悟くんに限って変なことなんかするはずないし――、そもそもこの提案自体が変なことと捉えられるのではという議題は永遠に完結しないだろうからすっ飛ばしている。無量空処無量空処。
ぎゅっと拳を握り締める。このくらいのコミュニケーションがとれずになにが恋人同士か、女は度胸、と脳内で暗示のごとく自分に言い聞かせて、ええいままよと勇む気持ちと勢いのままバスルームの扉を開けた。
「お、お邪魔しますっ」
情けなくもすこし震えてしまった声で間の抜けた挨拶をして、入口の前で深々と90度のお辞儀をすると、口元に手を当てた悟くんが噴き出すのを堪えたような籠った声がした。中途半端に耐えるくらいならいっそのこと声を上げて笑い飛ばして欲しい。なんかもう、ラブラブだとかそういうあまやかで浮ついた空気なんていうものは全然無かった。皆無だ。仮にあったとしても、きっとわたしはテンパりすぎて気づけないだろう。
シャワーを浴びている間、バスタブの縁に頬杖を突いた悟くんがじいっとこちらを見ているものだから恥ずかしすぎて顔を上げられない。その視線だけでからだに穴が空きそうだ。もこもこと身体を覆っている石鹸の泡と一緒に溶けて排水溝の中に吸い込まれていってしまいたかった。それよりなによりとんでもないのは、狭いバスタブの中にふたりで向かい合って座っている、今この状況である。
「あ……あのっ、今日、仕事、どうだった?」
ふよふよと覚束なく視線を彷徨わせながら必死に話題を探すけれども、悟くんはにやにやとチェシャ猫のように綺麗な目を細めてかたちのいい口角を吊り上げながら「別に。フツー」と首をこてんと傾げてみせる。色素の薄い髪が動きに呼応してわずかに揺れた。うっ、あざとい。顔が良い。そして会話が続かない。うう、意地悪だ。絶対今、いたぶられている。悟くんって普段はすごく優しいくせに、変なところで意地悪だ。思わず俯くと、爪先を揃えて三角座りをした自分の脚と悟くんの素足とが水面の奥底で揺らいでいるのが見えて、すこし身じろぎをする度にちゃぷちゃぷと音を立てるお湯の漣や、濡れた髪から顎の先、鎖骨やうつくしく均整の取れた胸元に雫を伝わせる悟くんの身体が視界に飛び込んできて、なんだかもう、なにもかもがたまらなく恥ずかしい。
「や、やっぱこういうの恥ずかしいよ、むり」
わたしは真っ赤になって顔を背ける。どこを見ていいのかすらもわからない。前を向けば悟くんのとんでもなく端整な顔やら均衡のとれた身体やらが目に入るし、俯けば自分と悟くんの生足が見える。向き合う構図の恥ずかしさに、ついにはなにもないまっさらな壁を見つめる以外の選択肢は見いだせなかった。
「なんでだよ。別に僕、じろじろ常世の身体見てるわけじゃないじゃん」
「そ、そうだけど、さあ、」
「じゃあ後ろ向いとけって」
そう言って、悟くんは腕を伸ばしてわたしの両肩に手を置くと、ぐるんと半身を回して背中を向けさせた。ぐっと引き寄せられて悟くんの足の間に納まって、後ろからすっぽり抱きしめられるような体勢になる。
「これならなんも見えないだろ?」
う、うわ、なんか、これはこれで、恥ずかしい。
いつもより身体が火照るのが早い気がする。どくどくと心臓が過剰に血液を送り出していて、背中に感じる悟くんの熱が更に余剰を生み出している。
「悟くん、やっぱり恥ずかしいよ……」
泣きそうな声で訴える。実際わたしは涙ぐんでいた。だってこんなの、どうしたらいいのかわからない。
「だぁめ。100数えるまで出してあげない」
悟くんはお風呂から上がろうとしたわたしを押し留めると、ぎゅっとお腹に手を回して後ろから密着するように抱きしめてくる。
「ひ、ひあっ……」
また変な声を出してしまった。ぷるぷる震えて涙声を堪える。ばかばかいじわる。悟くんのばか。
「常世はほんと、いい匂いだね」
抱きしめられたまま、耳の後ろに鼻先をすり寄せられた。するりとおへそから肋骨を辿るようにてのひらが脇腹を撫でて、うなじを唇が掠めて、びくりと反射的に身体が震えるとお湯の表面がゆらゆらと波を立てる。
悟くんの艷やかな低い声とか雄勁な指とか、妙に卑猥だ。うわ、なに考えてるんだろう、わたし……。
「んっ……、やっ、さと、るく……」
「常世ちゃん、僕と仲良く洗いっこしようか?」
もう駄目だった。キャパシティオーバーだった。意識を失って顔面から水没した。
*
「なんだよ、結局僕が一緒に入ってやってもだめなんじゃん。常世、これから風呂の温度三度下げて入んないと」
悟くんは相変わらずばかな子ほど可愛いとでも言いたいような口ぶりでわたしを嗜めると、電気屋さんのイラストが入ったうちわで、ソファの上で座礁したくじらのようにぐったりしているカノジョをぱたぱたと扇ぐのだった。
「だ、誰のせいだと……」
わたしはうつぶせになってソファに半分顔を埋めながら、恨みがましい目で悟くんをじとりと睨みつける。
「僕のせい?恥ずかしくて死にそうだった?」
ソファに肘を突いて、悟くんが目を細めて微笑みながら顔を覗き込んできた。「う、」認めたら負けだ。むしろ恥ずかしかったと認めることが余計に恥ずかしい。
「僕はまた常世と風呂入りたいなあ」
優しい声で囁いて、よりいっそう悟くんが顔を近づけてくる。思わずぎゅっと目を閉じた時、ぴるるるる、と鳥の鳴き声のように甲高い音を立てて仕事用の端末がアラートを響かせるものだから、息の触れ合うほど近くにあった悟くんの顔はぱっと反射的にわたしから遠ざかった。
「続きは後でね」
その内容が緊急を要するものか否かを確認するために立ち上がる直前、悟くんはわたしの耳元にやわらかい唇をぴたりとくっつけてだめ押しをする。
「早く常世とセックスしたいんだけど」
親指の腹でさりげなく、するりと唇を撫でられた。
そこから甘い毒でも注ぎ込まれたように、わたしの頭と心臓は一緒に破裂して、シャボンの泡がはじけるみたいに、ぱちん、……――