インザワールド



 ヂィヂィとかしましい蝉の声もなく、シンと静まりかえる水の中が好きだ。夏の盛り、昼間の生徒がぽつぽつと点在する食堂。わたしがうどんを啜りながらそう言うと、温そばに七味唐辛子をふりながら、五条はにやり、とたいそう悪い顔をした。

 真夜中の学校にはもちろん誰もいない。セコムしてますか、当然しているはずの公共施設だ、忍び込むにはなかなかに勇気が必要だった。体力はそれなりでも逃げ足の速さには自信があるわたしと、言わずもがな逃げ足の速さに定評があるどころではなく最強な五条。そんなふたりなら、たとえ見つかってしまったって逃げることはそう難しくはないだろう、なんて。そんな至極安易な考えも若さゆえだ。
 プールは山中の農道に面している。街灯はなく、高専の敷地内であることに加えて深夜であるから当然人通りはない。五条のよじ登るフェンスがガシャガシャと揺れて騒がしく鳴る音が閑静な空間に響き渡るようだった。

、はやく」

 フェンスを乗り越えてプールサイドに飛び降りようとしながら五条が農道に立ちつくしたわたしを見下ろす。なに、びびってんの。びびってないよ。そう、びびってなんかいない。

「落ちたら五条が受け止めてよね」
「えーやだよ、お前重そうだもん」
「しね」

 五条が飛び降りたコンクリートは、たん、と控えめに音を立てただけだった。わたしも彼を真似てフェンスに脚を引っ掛けて乗り越える。ひらひらと動きに呼応して揺れるスカートはこの際無視だ、どうせ今更中を見られて困るものでもない。着地自体に難があるとは思えないけれども、飛び降りでもしたら脚の骨やら筋やらを痛めてしまわないかとなんだかよくわからない不安に駆られてしまって、フェンスの網目に指を引っ掛けながら恐るおそるとプールサイドに降りると、よっぽどその動きがまぬけだったのか、五条がケラケラと笑い声を上げた。
 踵を履き潰して、だらしなくひっかけていたスニーカーとローファーを脱ぐ。他は授業が終わったときのままだ。肘までまくりあげた白いシャツと脛あたりまで捲り上げたスラックスにトレンカ、襟と前立てに黒のラインが入ったブラウスと、暑さに負けてウエストのあたりを二回折ったスカートにハイソックス。十代の輝かしい夏を謳歌することのほうが、大人になるよりもなによりも大切だった。脛を隠せスカートを下ろせと口うるさい教師の声を素直に聞き入れられるほど、わたしたちは大人でなんていられない。

「で、なにすんの?」
「えっなに、五条ノープランなの?」
「お前が水の中好きって言ったから来たんじゃん」
「五条のことのほうが好きだよ」
「…………お前、マジでそういうとこだからな」

 五条の少し張った声が静謐を保っていた閑静な空間に響く。そういうとこ、と言った彼の声色は言葉と裏腹にやわらかく、頬はほんのりと赤くなっていて、わたしは五条のそういうところがいとおしい、とひとりでひっそり笑みを深くした。

「プールはいる?」
「は、泳ぐの?その格好で?」
「ううん、ちがう。五条とはいる」

 わたしはきょとんと目を丸くして首を傾げた五条の手を掴んでぐいと引く。夜鳴きする蝉がやかましい、夏、けれど彼の手は真冬とかわらない冷たさであった。まるで季節からすべてを置いてきぼりにされたみたいだ。
 プールサイドの端っこギリギリから軽く助走をつけて、プールに飛び込む。ざぼん、とふたりぶんの水しぶきが上がる。それほど深くはない底まで一気に沈んで、その瞬間、わたしが望んでいた静けさがやってきた。あんなにやかましかった蝉の鳴き声も蛙の鳴き声も、どこか遠くで聞こえたバイクのエンジン音も、なにもかもを水が飲み込んでしまう。意を決して目を開くと、すぐ目前に指を絡めて手を握り合った五条がいた。無限を張っていなかったのか、ぎゅうと瞼を閉ざして、眉根を寄せた苦しげな表情がなければまるで死んでいるかのような、そんな白さだ。わずかな月明かりだけが差し込む水中で、髪も肌もなにもかもが、自ら意思をもって淡く発光していた。
 しばらく沈んだままでいたかったけれども、わたしたちの身体はすぐに酸素を欲しがって、そして浮力はわたしたちを水の外へ追いやってしまう。あまりに薄情だ。
 水面から顔を出したわたしたちは、軽く噎せながらもぜいぜいと必死に浅い呼吸を繰り返して、それからふと顔を見合わせて、ひとしきり馬鹿笑いをした。お互いに制服はずぶぬれで、肌にべたりと貼り付く感覚は気持ちが悪い。夏場だから寒いとは思わないけれども、とはいえ既に陽も沈みきって月が昇った真夜中だ、寮に帰るまでに乾くことはたぶんないだろう。これが硝子や夏油や七海なら呆れてため息を吐くくらいに留まるだろうけれども、夜蛾先生に見つかりでもしたらかんかんになって怒られるであろうことは明白だった。それなのにいったいなにがおかしかったのか、はたから見ればなにひとつ理解はできないのだろうけれども、そんなことはどうだっていい。水の底にふたりだけの世界を見つけた。その喜びで心臓がはちきれそうだった。
 空の星を映してゆらゆらと揺れる水面が、月の光に反射して眩しいくらいに光る。まるで大質量の恒星がその一生を終えるときに起こすスーパー・ノヴァみたいに。

「あーあ、バレたら怒られるんだろうなあ、これ」
「怒られるだけで済めばいいけど」
「ちょっと、不吉なこと言わないでよ!」
「でも別に退学でもなんでも構わないよ、俺は」

 指を絡めて繋いだままだった手にきゅっとちからを込めて、絹糸のような銀色の髪から水を滴らせた五条がひどく鮮やかに笑った。