※パラレル

オレンジデイズ



 意欲のある学生は前方に、単位が欲しくて受講登録をした学生は中央。ただ座る場所を求めて行き着いた学生が後方の座席を埋めている階段教室の、前方と中央の中間辺りに座った常世は黒板に書かれた文字をとりあえずといった様子でルーズリーフに書き移していた。
 締切に追われて深夜まで取り組んだレポートの作成作業は、おかげでどうにか提出までこじつけたけれど、代わりに犠牲となった睡眠不足のせいで瞼は今にも落ちてきそうなほどに重くて、あくびを噛み殺しながらもなんとか堪える。ぼんやりと靄がかかったように朦朧とした頭では教授が説明している内容の半分も理解できなくて、必死にシャープペンを走らせる手も、怠さが先行してしまいだんだんとやる気が失せてきた。わずかに跳ねた寝癖をかき回しつつ、再びのあくびを我慢できずに控えめに口を開けると、後方から講堂のドアが開く音がした。何人かの学生が振り返って、特になんのアクションを起こすこともなくまた前を向く。ひたすらに人数ばかりが多い大学では、こうして逐一それが誰なのかを確認しないと気が済まないのだろう。
 いよいよ本気で襲ってきた睡魔に抗うことを諦めた常世がついに手から転がすようにシャープペンを置いて、上体をゆっくり机に凭れるように折り曲げた時だった。

「おはよう」

 軽く二度、右肩を叩かれてのそりと顔を上げると、後ろの学生に気を遣ってか窮屈そうに中途半端な立ち膝の体勢で夏油傑が「詰めてくれ」と小声で急かしてくる。
 長机の端に座ってしまうのは癖、というより落ち着くと表現した方が適切だろうか。電車の座席ですべてが空席であれば真っ先に端に座るのと同じ感覚だ。学生数よりも遙かに多い座席数から、ひとりで授業を受けているほとんどがそうした位置で授業を受けている。常世も例外ではなく、半分ほど飛んだ眠気をさらに振り払うように凝り固まった首の後ろを解すように揉んで、机に広げていたものをざっと腕で押しのけながらひとつ横にずれた。するりと体を滑り込ませて隣に座った夏油の腕に巻かれた高そうな腕時計を覗き、時刻を確認する。

「30分遅刻」
「いや、昨日大変で……」
「どうせまた飲みつぶれた人家に泊めたんでしょ」
「悟の酒癖ってどうやったら直ると思う?」
「泡盛とか飲ませなければいいと思う」

 面倒見が良いのは結構なことだけれども、良すぎるのも考えものだと思う。懲りなよいい加減、と口から吐いて出そうになった言葉はぐっと飲み込んだ。
 ただでさえ朝が弱いわけでもないのに泥酔していなくとも遅刻癖のある五条が相手だ、常世も知り合ってそれなりに長いものだから、あの五条が交通の便に問題があったとはいえよくもまあ一人暮らしだなんて英断をしたものだと思っていたのだけれども、蓋を明けてみればほとんど毎日のように誰かの家に泊まっては同じ時間に起きて(正しくは叩き起こされて)大学に来ているのを知っている。そして、それなりの頻度でその策略が裏目に出ていることも。今回はどうやら裏目に出た方だったようで。きっと同じ時間で夏油とは別の講義を取っていたのだろう五条を起こして、なんだかんだと世話を焼き準備をしてから出てきたに違いない。
 そもそも酒を飲んでいようが飲んでいまいが、平素から酔っぱらいのようなおちゃらけた言動が多く、共通の友人である硝子曰くの「あいつ年中ふざけてる」五条に絡まれるのが厄介なことに変わりはないなという結論に思い至った。何度も被害をこうむっているというのに、憎もうにも憎みきれない変な奴だなと思う。
 だよなあ……、とわかりきったことを訊いたことに対してか諦念に近い苦笑を浮かべた夏油が手早く鞄からノートと筆箱を取り出すのを見て、すでに黒板から消されている箇所のルーズリーフを差し出した。きょとんと一瞬目を丸くした後、ふと眉尻を下げて「ありがとう」と軽く礼と共に顔の前に手を出しながら受け取る夏油がいつも前方に座っていることは知っていたから、「たいしてちゃんと取ってないけど」と前置きをすることも忘れない。

「いや、本当助かるよ」

 そうしてシャーペンを握り、さきほどまでのやわらかな表情から一変して真剣な眼差しを黒板に向けた夏油との会話は自然となくなる。教授の口から発せられる言葉の数々は右耳へ入って左耳から抜けていくようにするすると流れて、やはり常世には半分もわからなかった。