桜が好きなんだよね。ある日、常世は突然そんなことを私に言った。どういう話を経由してそんな話になったのかは思い出せない。もしかしたら経緯なんか無かったかもしれない。彼女はわりと思いつきで行動する節があるからだ。勿論その言動も然りで、だからそんなことはどんなふうに思いを巡らせたところで、所詮は詮無いことだった。
「神秘的っていうかなんていうか……とにかく不思議な魅力があると思わない?桜って。ずーっと昔に如月の満月の夜に桜の木の下で死にたい、っていう歌を遺した人もいたくらいだし。えっと……、誰だっけ、最澄?」
「西行だろう」
「あーそうそう西行!でも発音しちゃえばほとんど一緒だよ」
「声に出せば似てるかもしれないが、漢字にしたら全く違うからな。そもそも最澄は留学生とか宗教の方で有名な奴だ」
「小さい間違いなんだからいーの!西行はあれだよね、発心集書いた人だよね!」
「山家集だろう、発心集は鴨長明。『集』しか合ってないし……小さくすらないな。大体類から違うだろう。発心集が説話集で、山家集は歌集。常識だと思うぞ?」
「……昔の人達はそんな類なんかに分別されるために名作を生み出した訳じゃないと思うよ」
「そうか?私は彼らは名作を生み出そうと思って作品を書いた訳でもないと思うが」
「……」
屁理屈の言い合いでは到底勝てないと判断したのか(実際にそれはとても賢明な判断だ)常世はまるで聞き分けの悪い子供のように不貞腐れたような表情を作る。でもそれはほんの一瞬のことで、彼女はまた、にっこりと笑って言葉を続けた。
「それでさ、わたしその人……えーっと……」
「西行」
「そう、西行。あの人の考え、すごくよく分かる。共感するんだ」
「『如月の満月の夜に桜の木の下で死にたい』?」
「うん。素敵だと思わない?」
「私は素敵じゃなくむしろ酔狂だと思うがな。桜は根元に埋められた死体の血を吸い上げて色付く、なんて逸話もあるくらいだし」
「へー、それは初耳。でも、うん、いいんじゃない?」
そこで言葉を切って、いったい何がそんなにおかしいのか常世は小さく声を上げて笑った。
「そうでもしないとあんなに神秘的な雰囲気って、出せないような気がするもの」
目を細めてそんなとてつもなく非現実的なことを話す常世。それでも私にとってもそれは確かに、至極もっともなことのように思えた。人の命の抜け殻を養分に、美しい花を咲かす樹木。もしかしたら或いは、桜は人の魂を吸い取るからこそ、よりいっそうに美しくなるのかもしれない。
「……うん。如月の満月の夜に桜の木の下で、できるならね、傑に殺されて死にたいな、わたし」
「……は?」
「きっとさ、そうしたらこの上なく美しく死ねると思うんだよね」
常世は依然、笑ったまま。だからその言葉が本気なのかはたまた冗談なのか、その判断が私にはつかなかった。
「そんなふうにして死ねたらさ、わたしは幸せだな、すごく」
「……」
「なに?傑」
「常世って時々すごい可笑しなこと言うよね」
「うん、知ってる」
そんな会話をしたのが一体いつのことだったか。それすらももう思い出せないけれど、そんな在りし日の他愛のない光景が脳裏に鮮明に浮かんだのは、ひどく道理にかなっていたことのように思えた。遥か昔、それでも彼女は確かに私に言ったのだ。桜の木の下で私に殺されこの上なく美しく死にたい、と。
「……如月の満月の夜に桜の木の下で私に殺されて死ぬんじゃなかったのか?」
呟きながら、私は大きく嘆息する。肉体的な疲労とは別の意味で、体がとてもとても重かった。視界一面に広がる紅は血の色。その中央に存在する彼女の華奢な身体は信じられないくらい、それこそ人形のように白くて、希望なんて言葉は口に出すことすら虚しくてやめてしまうくらいに事実は明瞭に真実で明白だった。
馬鹿常世。今日は満月でもないし此処は桜の木の下でもないし何より君を殺したのは私じゃなくて愚かで醜い猿共じゃないか。それでも、命の灯火が消えてただの亡骸と化した常世が何よりもいっとう綺麗な存在に見えたのは言うまでもなくとても皮肉な話だと思った。彼女は私にも何にも頼ることなく美しく死んだ。それを彼女が、望んだかは知らないけれど。
「……常世、」
名前を呼んでも返事が無いことを確認してから、紅の中心にいる常世の抜け殻を抱え上げた。その全てを拒絶するかのような軽さと冷たさに一瞬怯んで、目を瞑る。そうして、ほんの少し立ち止まってから、私は彼女を傍らに埋めるのに相応しい桜の木を探すために歩き出した。世界がゆっくりと、夜の闇に溶けていくのが分かる。静かだった。とてもとても、静かだった。
「『願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ』……か」
そう口ずさんでから、私はぼんやりと遥か昔に願いが叶ってその通りに死んだ偉人と、今私の腕の中に存在する願いを叶えることなく命を断ってしまった常世のことを思った。
結局望みが叶うことはなかったけれど、それでも来年の春になったら、何より美しかった君はきっと、何より美しい薄紅色の花を咲かせてくれることだろう。そんな確信や希望に似通った思いもまた、闇の黒にするりと溶けていった。