酸素を閉じ込めた日曜日



 想われる、ということはとても心地よくてぬるい。眠りについたかのような永遠の微睡み、絶対的安心と傲慢。それは高みの見物にもよく似ている。だって、なにをしなくたってなにも返さなくたって愛されるのだから。そこには疑念も不信もなにも必要ではないのだから。
 愛される側は、なんて無防備で無意識で役立たずのかたまりなのだろう。思いなんて、いつの間にか気づけば大きくなって育ち過ぎて、愛される側か愛す側のどちらかを食べてしまうというのが最後の最後、結果的に待つ終末なのに。

「……えーと恵、携帯持ってる?」
「あ、……忘れてました、スミマセン」
「ちょお待っとって、取ってくるわ」

 パンツ一枚のさんが裸足でぺたぺたと床を叩く足音をさせながら部屋の中へと戻っていくのをじっと眺める。アヒルとかペンギンのオモチャみたいな、そういうのを彷彿とさせるようなかわいい後ろ姿にひっそりと目を細めて、俺はまた靴紐を結ぶ手の動きを再開させた。
 さんが間宮の本家から出て借りた、駅に程近いアパートの玄関はそれなりに広くて、いったい何人分だと訊きたくなるくらいのおびただしい数の靴で溢れている。さん曰く、多すぎて靴箱にはもう収めきれないのだそうだ。あっちこっちに色とりどりな、明るいものから暗いものまで揃った印象の違う靴が散乱している。色の暴力は、まだ眠さの残る目にはちかちかと網膜を刺すように痛いくらいだった。
 ああ、端っこにあるマーチンはそういえば俺のだ。いつかにあげたのか、それとも置いていったのか、それすらも、もうあまりよく覚えていない。ひとつひとつをすべて覚えておくのはひたすらにしんどいだけだということを知ってから、最近は物事をあまり事細かく覚えないことにしていた。濃すぎる記憶は、時として毒に変わることを俺は知っている。

 部屋の奥の方からぼんやりと立ち昇るように匂うのは、きっとイランイランの香り。昨晩、ふたりで浴槽で焚いてたっぷりと使ったものだ。煙を吸わなくても意識に纏うようなその香りは軽い中毒性を持つのだと思う。少なくとも、俺とさんはふたりしてそうだ。
 こんな風に匂いを一緒にして共有していると、なんだかまるでさんとひとつの物体にでもなったような気持ちにさせられる気がしてくる。なにもかもすべてを支配される感覚。熱くも寒くもなく、空腹でも満腹でもなく、時間への執着もない。呼吸まで彼の気配を感じさせられるのは心地が良くて、そして、ごくごくたまに息苦しい。
 恵と俺、おんなじ匂いすんなぁ、って、さんはひどく嬉しそうな顔で笑うけれども。

「はい、携帯」
「どうも。……また待ち受け変えたんですか」
「オソロやで。これにしとき」
「……今度は何の"おまじない"ですか」

「 」

 微笑みを携えて平然とした口調で放たれたのは、普通の人ならドン引いてしまってもおかしくないような言葉。俺もそれなりに絶句して思わずさんの顔を見つめると、さぞかし満足そうな満面の笑顔だった。その表情があまりにも嬉しそうだったものだから、俺もわけがわからないままつい笑ってしまう。他人にリズムを乱されることをあんなに敬遠していたというのに、今ではすっかりさんのペースに巻き込まれている。呪いって書いてまじないとも読むんだって〜、とかなんとか。そんなことを言っていたのは五条先生だったっけ。必要あるんだかないんだかわからない妙なうんちくが役に立つ日がようやく来たな。ソース元である肝心の五条先生はここにはいないけれど。

「……こんなの効くんですか?」
「効いとるやん、現在進行形、ふふっ」

 とろりとした甘えた声でさんが背中から覆い被さるように抱きついてきた。俺だけが身に纏った一枚の布を通して伝わるあたたかさ。身体からも残穢のように残って僅かに感じられるイランイランの香りが、ふたりぶんになって強くなる。重くて、鼻腔と頭を刺激して、けれどもすぐに消えてしまうくらいに柔い。
 余白のない愛なんて大概こんなもんで。溺れてみたら、これはこれで結構いいものだ。