ゆらゆら、ゆらゆら。
重力がなくなってしまったように、空間を漂うような夢を見ていた。もしかしたら水の中だったのかもしれない。さっきまでの痛さも寒さもなく、ふわふわと揺蕩う感覚は心地がよかった。重くてコンクリートの地面から起きれなかったはずの体は羽毛のように軽くて、景色をはっきりとは覚えていないけれど、それはとても優しくて、まるで大きくあたたかななにかに守られているかのようだ。ここは、楽園だろうか。
「――……あ、」
正直、わたしは目を覚ましたくなかった。だってあんなに素敵だったのに、高くも低くもない真白な天井が見えたと思ったら、すぐに身体の何ヶ所かに痛みを感じる。ぎしぎしと軋んで体は動かず、今措かれている状況を理解しようと起き抜けでぼんやりと霞む思考回路を必死に回転させた。
わたしは今寝ていて、なんとなく体が覚えてるこの場所は家入さんお抱えの医務室で、そうだわたしはもうすこしで死ぬところだったんだ、と思い出した。目を覚ましたくなかっただなんて言ってる場合じゃなかったのか、わたしは危なく死の橋を渡るところだったのかもしれない。
でもじゃあ、あの素敵な夢はなんだろう。死の途中があんなに素敵なものなら悪くない。それこそ必死に生き延びて、なんとか生きていることを喜ぶべきなのだろうけれども、さっきからずっと腹部や関節の至るところに痛みが走っているからあまりこの状況はいただけない。
家入さんは今どこにいるのだろう。たぶん反転術式で大きな怪我のほとんどは治してもらえているはずなんだけれども、この痛みを和らげるためにもとにかく麻酔が欲しい。それにしても散々な有様だ、こんなに怪我をするなんて。このまま死んでしまっても本当におかしくなかった状況なのではないだろうか。
真っ白な天井を眺めながらぼんやりとそんなことを思っていると、外からばたばたと慌ただしい音がする。なんだなんだ、と訝しく思っていたら廊下に繋がる入口のドアがガン!と盛大な音を立てて乱暴に開けられて、その音の大きさに思わずびくりと身体が震えた。あまりにもびっくりして唖然としたまま声が出ない。
「……、っ」
「……ええと、」
なんと言ったらいいのかわからなくて、まったく意味のない言葉を発してしまった。首だけを少し動かして医務室に入ってきた人物を見たら、その相手もまだなにも言えないようで肩を上下させて必死に酸素を肺に取り入れながらわたしを見ていて、彼がそんなに息を乱すところを久しぶりに見た気がする。
「……おは、よう……ございます……?」
「おはようじゃないだろ!」
「……えと、おかえりなさい恵くん」
「……常世」
おかえりでもないだろ、と言いたげに呆れた声色で恵くんがわたしの名前を呼んだ。ですよねー。でも君が急に入ってきてなんにも言わないからわたしも困ったんだよ。恵くんはその切れ長の目でわたしをぎろりと睨むと、つかつかとわたしの寝ているベッドに近づくと布団を思いっきりひっぺ返した。
「うわっ!な、なに」
「こんなに……お前、」
「な、あ、に」
「……しぶとい奴」
憎まれ口を叩く口調とは裏腹に、恵くんはぐっと眉間に皺を刻み込んで唇を引き結んで顔を歪めて、たぶん、おそらく、今にも泣き出しそうな顔をしていた。実際問題わたしは恵くんが泣いているところを見たことがないのでよくわからないのだけれど、とにかく、すごく痛そうな顔で。それはきっと、わたしが初めて見る表情だった。
「……身体、動かないのか」
「あー……」
さっきまでは指先しか動かなかったけれども、少しずつ動かそうとしてたらどうにか辛うじて右腕は上げられるようになった。他のところには力が入らない、というより、神経への伝達が鈍って力の入れ方がわからなくなっているんだろう。
「右腕は、動くよ」
「……そうか」
「……恵くん」
「何だ」
「左手の甲、怪我してる」
「ああ……、常世ほどじゃない」
「……そうだけど」
たった今気付いたとでもいうようなあっけらかんとした言葉に、思わずため息をつきそうになった。確かにそのくらいなら掠り傷程度だけれども、そんなに急いで来たのだろうか。任務から帰ってきた報告はしたのか、それともそれより前に帰ってきていたからすぐにここへ来てくれたのか、生憎と今さっきまで寝たきりだったわたしにはわからない。
わたしも恵くんもなにも言わない。無言でこちらを見つめたままの彼の端整な顔を見て、死なないでよかったと、彼の顔がまた見られてよかったと思った。彼は自分のことをあまり話さないけれど、置いていかれることを酷く嫌がるから、もし仮にわたしが死んでしまっていたら彼がどうなってしまうかくらい容易に想像がついてしまう。恵くんが顔を顰めながら己の唇を噛む。あまりにきつく噛んでいるので血が滲みそうで心配になってしまった、けれども恵くんは気付いていないようだった。
「……恵くん、口」
「心配した」
わたしの言葉に食いぎみで被せてやっと唇を噛むのをやめた恵くんがそんなことを言った。それはどこか心の底から絞り出すような声で、きっと他にもまだ言いたいことはあったんだろうけれども、それが精一杯だったようだった。
わたしは怪我をしていない自由に動かせるほうの腕を上げて、黙ってしまった恵くんへと伸ばした。
「……何だよ」
「抱きしめて」
「腹、」
「起こして平気だから」
「……」
逡巡するようにすこし沈黙した後、諦めたように軽くため息をついた恵くんはゆるゆると頷いて、普段よりもずっと優しく壊れ物でも扱うみたいに(実際今のわたしは壊れ物のように脆くなっているのかもしれない、痛みがあるからまだ神経が繋がっているのは確かだけれども)、ゆっくりとわたしの背と肩を支えて身体を起こした。その弾みでお腹が痛んで思わず「いっ……」と声を洩らしたら、いっそうに手つきが優しくなった。そっと力を入れないように抱きしめてくれるから、わたしもかろうじて動く右手だけを彼の背中に回した。あたたかい。恵くんの息遣いが耳のすぐ近くで聞こえた。長い深呼吸を繰り返して、肩の震えを抑えている。
「……お前が」
「……」
「常世がいなくなったら」
「……」
「……常世までいなくなったら、俺は……どうすればいいのか、わからないだろ……」
「……大丈夫、生きてるよ」
「……ああ」
弱々しい掠れた声。はじめて聴いた、こんな声。ぽたりと肩に雫が落ちて、シャツにじんわりとあたたかな染みをつくった。
なんだか今日は珍しいことばかり起こる日みたいだ。恵くんはわたしと同い年で、けれどわたしよりずっとしっかり者でずっとずっと強くて大きいのに、わたしに縋りつくように泣いている。
触れた部分から伝わる恵くんの体温がすごくあたたかくて、目の前が潤んで視界がぼやけ、夢の中のおぼろげな景色と重なった。彼の肩越しに見る景色はこんなにも優しく、彼はこんなにも大切にあたたかくわたしを抱きしめてくれる。
楽園は、ここにあったのだ。