忘れ得ぬ人



 そんなに広い部屋ではない。扉を開けて廊下へ出ればすぐ玄関がある程度には。それなのに、なぜかドアの閉まる音がやけに遠くで聞こえた。張り詰めていた緊張の糸が切れて、ずるりとへたり込んでから自分が緊張していたことにようやく気づく。笑おうとしたのに、胸のつかえが邪魔をした。
 泣きじゃくるのだけはプライドが許さず、緩慢な動きで床に投げ出した携帯電話を拾う。液晶の画面を着けると、昨日が終わっていた。時間を確認した後に意味もなく画面に滑らせていた指を止める。耳に押し当て、聞き慣れた無機質なコール音にどうか切れないでくれ、とこころのどこかで願いながら、ぷつりと途切れたコール音の直後に耳へ届いた『もしもし?』と掠れた声に思わず息が漏れた。

*

 夜中なのにそこまで道が暗くないのは、こんな時間でも行き交う車のライトがアスファルトを照らし、月の光が雲を浮き上がらせるほどに明るかったからだ。洗濯カゴの中から取り出した緩めのパーカーを羽織って、そのポケットに携帯と両手を突っ込んだ常世は惰性な足取りで目的地へ向かっていた。ぼんやりとした視界はメガネをかける必要があるほどではないにしろ、またひとつ大きなエンジン音を立てて走っていく車のブレーキランプが輪郭を滲ませる程度にはフォーカスがかかっている。思わず吐いたため息もそのまま夜の冷えた空気に溶けるようにして消えていく。十二時を超えた町は、けれど静まることはなく、喧騒から抜け出すためにすこしだけ歩幅を広げた。
 公園までの階段をずるずると上り、一度ポケットから取り出した携帯を見る。着信もメールも入っていない。落胆する前に顔を上げると、至極不機嫌そうな顔をした伏黒がタイミングよくこちらを睨みつけているのを見つけた。慌てて駆け寄るような仕草をすれば、「お前、マジで」とブランコの上で組んだ脚をゆらゆらと揺らしながら僅かに苛立った声が耳に届く。

「ごめん、まさか本当に来てくれると思わなくて」
「だったら呼ぶなよ」

 遊具を囲う柵を超えて隣のブランコに座ると、ギィ、と錆び付いた鎖が不愉快な音を立てて、不安定に体が前後に揺れた。数年ぶりに座った懐かしさに思わず両足で地面を軽く蹴って漕いでみると、あの頃と変わらないふわりとした浮遊感に包まれる。呆れたような眼差しを隠しもせずに向けてくる伏黒の口元が僅かに動き、その後なにも言葉を発することなく静かに結ばれたのを、視界の片隅に確認した常世は努めて明るい口調で「ねえ」と呼びかけた。

「前も乗ったよね、こうやって」
「お前は何年前の話をしてんだよ」
「最後に乗ったの確か中学生の時だもんなあ。ふたりでムキになってすっごい高いところまで漕いだ気がする」

 笑い声が乾いてしまわないように、できるだけ正面を向いて言った。夜の空気の中、ずっと遠く、暗闇を照らし出す街灯の明かりのひとつに、制服のブレザーに身を包んでいた頃の自分が立っているような気がした。軽やかな風をからだに受けていてもぐっと胸が詰まるのを感じる常世の頭の中に、重たい鞄を抱えながら毎日通っていたあの頃がひとつ、またひとつと呼び起こされていく。

*

 青い空に雲が浮かぶ。それをガラス窓で囲われた枠の向こう側に流れていくのを眺めていると、時折絶望的な思いをすることがあった。閉じ込められた気分とはまさにこのことだ。目の前にした赤文字の数字と丸の少なさを今一度確認しても現状はなにも変わらない。問いを間違った生徒のために行われた答え合わせで無理やり正解にこじつけようとしたけれども教師の呆れ顔が崩れることはなく、しぶしぶ諦めて自分の席に着いたのが先ほどのこと。
 いくら教師に点数を抗議しても打破できない。それがわかった瞬間、ただ退屈に時間が流れていくことを知った常世は窓の外をぼんやり眺め、その時間に身を任せることにした。開け放たれた窓から時折吹き抜ける心地よい風に意識が遠のきかけると、それを阻むかのように授業終了のチャイムが響き渡った。

「追試あった?」
「ギリなかった。お前は?」
「んん、追試はなかったけど絶対お母さんに怒られる点数」

 いつもは教科書やお弁当が入って重たい鞄も、荷が下りた肩と同じぐらい今日は軽い。伏黒もゲームの携帯端末と答案用紙くらいしか入っていないであろう鞄を肩にかけて眠たそうに相槌を打つ。

「また夜までやってたんでしょ」
「いや、朝まで」
「……好きだねえ」
「そこそこな」

 道筋が身体にしみついて考えなくても歩ける通学路を、忘れていく寂しさに気づくのはもっとずっと後のこと。アスファルトから消えかけた白線が新しく塗り替えられて、ようやくその懐かしさを思い出す。一歩一歩の重みも大切さもわからないまま、信号待ちで立ち止まってする実りのない会話も、その時はただ、その場繋ぎの言葉だと思っていた。

「今日夕飯なんだろ」
「お前毎日夕飯の話するよな」
「じゃあ伏黒なんかおもしろい話題出してよ」
「ねえよ。テストやって終わって返却あって。毎日何も変わらねえじゃん」

 変わらない毎日などないと。知っていれば有意義に生きれたのか、と問われれば、多分きっと生きれない。仮にまたあの頃に戻ったとしても、毎日がただくだらないまま過ぎていき、早く大人になりたいと時を急かす。そうして振り返ってからようやく、その時になにをすべきなのかを知り、焦って戸惑って過去を嘆くのだ。変われない。毎日がどんなに変わっても。

「ね、伏黒」
「あ?」
「ちょっと寄り道してくる」

 帰り道、必ず通り過ぎる公園はかなり前に大半の遊具が撤去されていたけれども、ブランコだけは変わらない姿のままでいた。テストが終わったことへの開放感と、それまで真面目に机に向かってばかりいて、なんだか急に無意味なことがしたくなったのだ。伏黒の返答も聞かないまま常世は小走りにブランコに向かい、今と同じ場所に座った。スカートが捲れることを気にしつつ加速をしていくと、離れたところで諦念を滲ませて呆れたようにため息をつく伏黒の姿が見えた。

「すげえバカっぽいけど」
「けど?」
「……」
「どうせ伏黒も乗りたいんでしょ。隣空いてますけど?」
「……けど?」
「よかったらどーぞ」

 一度周りに誰もいないことを確認するのが伏黒らしかった。そして鞄を放り投げて飛び乗ったかと思うと、一気に漕ぎを加速させて常世と同じ高さまでブランコの位置を上げる。

「パンツ見えんぞ」
「見たらジュース奢って」
「じゃあ見ねえ」

 なにそれ、と言うとこみ上げてきた笑いが口から漏れ出た。全身で感じている風が後押しをしてくれるから笑い声が止まらない。身体が一番高いところまで上がって笑うと、空に響いているような気がして楽しかった。隣で「声がでけえよ」とこれまた呆れたような声で言う伏黒に、常世は「うけるね」と笑った。

*

「彼氏と別れた」

 地面に足をつけたまま身体を軽くゆするとブランコが前後する。その感覚を味わいながら出した声色は、明るかったと思う。なにも訊かず、なにも言わずにただそこにいてくれた伏黒は予想通りなんのリアクションもしなかった。驚くことも、頷くことも。そのことにどこか安心した常世は尚も口元に笑みを浮かべながら続ける。

「あいつのもの全部捨てようと思って部屋掃除してたら昔のアルバムが出てきた。すごい笑ってる写真ばっかでさ……懐かしくなっちゃって。急に誰かに会いたくなった」
「それで俺かよ」
「だってみんな引っ越しちゃったり一人暮らししてて、この辺にまだいるの伏黒だけだったんだもん」

 悲しいことを口に出して悲しい、と言えなくなったのはいつの頃なのか、常世にはもうわからない。ただ、喉と瞼に集中する熱をやり過ごすのには笑うのが一番だということを知ってから、自分自身を誤魔化すための手段として何度も使ってきた。手持ち無沙汰な指先が行き場を求めて無意味に動くのもそのひとつだ。そうして必死に感情をコントロールすることで守ってきた。自分を。

「また会っても、どうせくだらないことしかしないだろうにね」

 過去を美化して、しがみつくしかなかった。色褪せたはずの思い出は常世にはただ輝いて見えていた。あの頃感じていた辛さも、悲しさも、やりきれない思いも。全部が美しくそこにある。思い出せば出すほど悔しいぐらい羨ましくなって、慌てて笑った。上を向けば堪えきれなくなりそうだと感じて俯くと、後頭部に突き刺さる伏黒の視線を感じる。公園を照らす街灯が切れかかっているのが、今は無性にありがたかった。

「変わんねえなお前」

 そうして唐突に投げ出された声は、いつかに聞いた声色と同じだったような気がした。

「覚えてないだろうけど、初めてテストで赤点取ったとき。好きな先輩に告白して玉砕したとき。受験で行き詰ってたとき。たいていそこ座ってたろ」
「そう……だっけ」
「そうだよ。芸がねえなーってずっと思ってた」

 視線がようやく合う。ブランコに座ったまま腿の上へ頬杖をつくようにしてこちらを見る伏黒が、記憶の奥に潜んでいたものと合致する。タイミングよく薄らと微笑んだその顔が。ふ、と口の端から漏れた息が。取り繕っていた感情を叩いてきた。

「やっと泣いたか」

 身体ごと背けても、どうせ鼻を啜る音でばれているだろうと思った。それでも、再び顔を向けるようなことは到底できなかった。自分でもなにを思って泣いているのかはよくわからず、それでも、溢れ出してくる素直な涙は痛いばかりで止め方が分からない。

「昔は人目も気にせず泣いてたんだから最初からそうしろよ、ばーか」
「ば、ばかって……言うな、」

 なんとか発した言葉はひどく震えていて、その情けなさに伏黒がひそかに笑い声をあげた。「ぼろぼろだな」と痛いところを的確に突っ込んでくるあたりが、伏黒も変わらない。こういうときは優しい言葉のひとつくらい、と思ったけれども、笑い声を引きずりながら「悪くないな、大人の号泣も」と茶化すような語尾が僅かにワントーン落ちて、その声色に妙に安心した。
 ギィ、ギィ。隣で伏黒が立ち漕ぎを始め、ブランコが軋む。その音がなぜか、たまらなく切なかった。