伏せられた睫毛の美しさに、どのくらいの人が気付いているんだろうなあ、と思いながら隣に座る彼の横顔を見つめた。ぱら、ぱら、と紙を捲る音だけが響く静謐な部屋の中では、わたしの呼吸すら煩わしい雑音のように思えてしまう。伏黒の本を読む速度はわたしよりもずっとゆっくりで、丁寧に一文字一文字を拾っているみたいだと思う。いつも言葉を流れるように読んでいくわたしは彼よりも読んだ本の数は多いはずで、でも密度で言ったら大分違うだろう。硬そうに見えて意外とやわらかな質感の髪がときたま顔にかかっては、すこしばかり煩わしそうに左手の人差し指で前髪を避ける。いつも持ち歩いている本を読み終わったわたしは、本を読む伏黒をじいっと見つめていた。すぐに気が散る云々と注意されるかと思いきや、存外気付いていないようだった。彼の睫毛は一本一本がはっきりとしていて、目じりに近づけば近づくほど密度が増して、笑うと更に影が付いて、濃さを際立たせる。
「飽きねえの」
「飽きないよ」
「人の顔、じっと見て」
「睫毛長くて可愛いから」
「……まじで、八意ってそういうわけわかんない冗談言うの好きだよな」
「好き好き」
心底の笑顔で答えると、伏黒は本当に苦々しい顔をしてわたしから顔を背けた。けれども、わたしが暇を持て余していたことにも気付いていたようで、自分の手に取っていた本を閉じるとぐっと大きく伸びをする。伏黒曰くのわけのわからない冗談というのは、半分に本音を混ぜるからスリルがあって楽しいのだ。恋愛は全てストレートの剛速球、そういう考えの人も一定数世の中にいることに、大人になって戸惑ったことすらある。
別にわたしは、自分の恋が成就しなくても、それなりに親しく、彼とお酒を飲んだり、同じ部屋で本を読んだり、貸し借りをしたり、最近見た映画の話をするだけでいい。相手がわたしをどう思おうと、嫌われていなければ、一緒にいる価値のある人間だと思われれば、それで勝ちだ。触れて壊れてしまう、脆いジェンガのような関係はいらない。永遠に完成しないパズルのピースを当てはめて探していく方が、わたしにとってはスリリングで、けれども、安定している。
別に彼の睫毛の長さで好きになったわけではなく、じゃあ微笑んだときに片方の唇を上げるからなのか、と言われたらそこも好きだけれども、きっかけではないとしか言えない。たまに泣いているみたいに、叫ぶみたいに、どこか遠くを見る瞳の色が他の人と違っていたから、っていう理由はどうだろう。こんなに彼女になろうとも思わない恋愛は初めてで、だからこそ、自分がここまで求めていない理由を探している日々だけれども、今のところ結論は出ていない。束の睫毛でもシニカルな微笑みでも潤んだ瞳でも言葉と言葉の空間にある丁寧さでもあるけれど、それらがすべてスタートではなくて。
「やめてよかったの、本」
「別に本はいつでも読めるし」
「そう?」
「今日は何時までいれんの」
「どうしよう、終電で帰ろうかな、それまでいていいなら」
「別に送るけど」
「それは悪いしいいよ」
出会った頃から伏黒の言葉の節々に感じるなにかがわたしと合うような気がしていたのだけれども、きちんと話してみたらそれは思っていた以上だった。本、映画、料理、音楽、興味が無いものとあるものがはっきりと分かれていて、合うものはとことんだった。合わないものもとことんで、その感覚の違いみたいなものを聞いているのが楽しくて、彼の部屋にいることが増えた。けれども、泊まったり、お互いの仕事に侵食する時間まで居座ることだけはしないようにしていて、伏黒はいつも遠慮しないでくれ、というようなことを言うけれども、一応睡眠時間やひとりの時間の大事さは理解しているから、きちんとした時間にきちんと帰るようにしている。
「あのさ、」
結局何時に帰ろうか、終電でいいかやっぱり、なんて考えていると、伏黒の声がやけに近くではっきり聞こえた。束の睫毛に縁取られた瞳はあまりにも大きくて、わたしが映っているのがよく分かる。
「睫毛、俺より長くない」
「化粧してるからね」
「俺なんかよりずっと可愛い、……ってか俺は男だから可愛いとか違うだろ」
「……なに言ってんの?」
嫌悪とはまるで違う、どこかむず痒いようななにかが背中をさぁっと這ったような錯覚を覚えるのと同じタイミングで、ぐるり、と伏黒の腕がわたしを包む。さっきまで丁寧に本を読んでいた指先がわたしの体に触れていて、彼の顎が首筋に触れている。その瞳はどこを見ているのか分からないけれど、なによりも熱を持っている唇が耳元に触れた。熱い、彼の呼吸はまるで沸騰したやかんから漏れている蒸気みたいで耳が火傷しそうだ。
「俺の事嫌いじゃないなら、今日は帰んないでくれるか」
「……なんかあったの?」
「ずっとあった、けど」
「な、に」
「俺、結構我慢してるけど、気付いてなかったりする」
「がまん」
「八意のこと、普通に女として見てるんだけど」
ぐるぐる、蒸気みたいな熱を纏った声がわたしの耳の中に入っていく。伏黒の指先はわたしの肩や背中に触れるだけで、なにも壊したり侵したりしないように、ただ添えられている、それだけ。こんな世界を、決して望んでいないのとイコールではないけれど、求めていたわけでもなくて、あまりの息苦しさに思わず目を閉じた。先程彼の瞳に映っていたわたしはどんな顔をしていたのだろうか。彼が添えている手の下にあるわたしの背骨はどんな風なんだろうか。布越しでも伏黒のしっかりとした体つきも感じ取ることが出来る。もしも、痛いくらいに抱き締めて、愛していると言われたら、もっと変わったなにかを言えたのかもしれない。わたしは壊れないように酷く丁寧に抱き締められて、耳元ですぅすぅというなにかを抑えるみたいにした呼吸を聞いた。
「今日だけ、でいいの」
「……いや、もっとずっと居て欲しい、けど」
「うん、いいよ」
「いいの」
「ねえ、もっとぎゅってして」
伏黒は、すうっ、と息を綺麗な音を立てて吸い込んでから、徐々にわたしの体を抱き締める手に力を込めた。プレスする機械の映像をぼんやり思い出す、あれも最初はゆっくりで、徐々に押しつぶしていく。このままくっついてしまっても構わないけれど、そうしたらわたしと伏黒の境目がなくなってしまう。
「伏黒、わたしのこと好きだったの」
「好きじゃなきゃ、こんなに呼ばない」
「わかんなかったなぁ」
「で、これからもずっと、俺といてくれんの」
「うん」
気付いてないの?、心で呟きながら、わたしはそっと伏黒の肩を押して抱き締める腕を放す。額と額の距離は十数センチくらい、黒い綺麗な瞳はまたちゃんとわたしを映してくれていて、睫毛の束が影を落としている。少しだけかさついた薄い唇、笑うと皺の寄る頬、滑らかに隆起した喉のライン。
「わたしだって、ずっと、好きだったよ」
目を見つめその言葉を発して、わたしの瞳が伏黒恵という存在をはっきりと映したのは一瞬だった。よ、という言葉の残りが空気に溶けるのと同じくらいの速さで、わたしの唇は彼に奪われていた。見つめるだけで充分だった沢山の部分に、一気に触れてしまっている。呼吸と呼吸の合間に瞼をそうっと開けると、目を閉じてわたしを貪る彼の睫毛や瞼をじっくりと見ることが出来た。好きに理由なんて無いんだけれど、好きなところは限りなくあるんだよなぁ。
いつの間にか、押し倒されているわたしは伏黒のなすがままになりながら、頬をそっと撫でて、今度こそ目を閉じた。