ハウメニイの朝食



「だれかが隣におるんめっちゃ嫌やねん、気になってぜったい寝られへんもん。小学校とか中学の合宿で雑魚寝とかめっちゃしんどかったし。女の子も無理。ぜったい。だからそういうときはな、寝相悪いふりして、こっそり床で寝る」

 かつて、確かにそう言っていただろう、あの病気みたいな神経質さはどこへいったのか!かたわらで人工的な濡れ羽色の頭を枕に沈め、間抜けな寝顔ですいよすいよと眠る男。彼はあのとき首を振った、まばゆい金髪を揺らす間宮侯隆少年の未来だ。
 俺がすこしの肌寒さを感じて目を覚ますと、やはり布団が簀巻きよろしく巻き取られていた。このひと駄目だ。何千何億回目か、頭をよぎった言葉が再びやってくる。このひと駄目だ。そんなにも駄目だと思うのならさっさと離れてしまえばよいのに、けれども、そうはさせてくれないなにかが、確かに侯隆さんにはあった。(きっと本能をくすぐるなにかだろう。実際問題、彼は年上の女性に、おもしろいほど好かれている。尤も、その好意に気づいてなお、彼が同じような感情を相手に返すということは殆どないのだけれども。)
 音を立てないようにそっとベッドから脚を下ろしてフローリングを踏んだ。放り投げるように散らかしたままだった衣類を適当に拾って身につけて、ゴミ箱に投げ込んだはずが狙いを外して床に落ちている残滓の塊は改めてゴミ箱に突っ込んで、見上げた壁掛けの時計は七時より少し前を指している。丁度良い朝食の時間。なにか作ろうと思い至ったところで、「めぐ」舌足らずなたどたどしい口調、寝起きだからだけではない甘く掠れた声で侯隆さんが俺の名前を呼んだ。
 通常どおり、という言葉がこういうことに適用できるかどうかは別として、そんなに過激なことをさせた記憶も、彼が特別疲れを感じていたという印象も受けなかった。だからきっと、俺が起き出したころには既に目覚めてしまっていたのだろう。俺の隣で無防備にのうのうと眠るくせに、依然として至極浅い眠り。アンバランスな神経質さが、時折、金髪の少年を思い起こさせるのだ。だから、俺はあまり彼をぞんざいに扱うことができないでいる。

「なんですか」

 今でこそ時折抜けてしまう敬語をわざと使って、できるだけ優しく問うた。「いま、なんじ」「七時です」彼は羽毛布団でぐるぐる巻きの裸体で寝がえりを打つと、うっすらと開いたものの今にも閉じそうな瞼の奥にひそむとろりとした瞳をこちらに向けて「朝飯できたら、起こして」と依然掠れた声で呟いた。昨晩さんざん泣きはらしたその目許は赤い。布団に巻かれていない鎖骨が顕になって、昨夜の行為の痕跡がくっきりと残っていることを認める。やはり、少しばかり無理をさせたかもしれない。
 悪いことをしたとは一切思わないけれども(一般的にこういった行為を"イイコト""イケナイコト"と相反した言葉で表現する事実の不確かさと矛盾については議論の余地があると思っている)、ゴミ箱に積み上げられた行為の残骸を見るに、それなりの回数を強いた覚えはある。もうむり、ゆるして、やだ、しんじゃう、おかしくなっちゃう。融けた表情で投げかけられた、およそ本心からの拒絶とは言い難い、けれども切実を滲ませた悲鳴のような言葉の数々に煽られて余計に燃え上がってしまい、喰らい尽くすように抽送を繰り返したことまで同時に思い出されて、思わず眉間を押さえて俯いた。胸のうちでだけ申し訳ないと謝罪の言葉をおくる。むらり、と甦るように再び燻り始めた熱は、長く深いため息と共になんとか鎮めて吐き出した。

「だめです。目え覚めたんでしょ」
「んん、むり、ねむい」
「眠くねえ!朝飯準備するから、はやく服着ろ。起きろ!」

 ばしり、床から彼のシャツを拾って簀巻きから飛び出た頭に投げつけた。朝からうっさいめぐほんまにもう。あかんわ。ふにゃふにゃと唸りながらぼやく言葉をそのまま返してやりたくなる。半分くらいの呆れを混ぜて、リビングに繋がる寝室のドアを開け放った。

侯隆さん、十分で出てこなかったらまた襲いますよ」

 吐き捨ててキッチンへ向かうと、後ろからドタドタと慌てたように起きだす音が耳に届いた。その前にごん、と床を打ったような音もしたから、恐らく簀巻き状態のままベッドから転げ落ちたのだろう。最初から黙って起きていればいいものを。それでも行為の続行の有無を拒否されたようでなんだか悔しいから、少しだけ、ほんの少しだけ、残念だなんて思ったことは口には出さないでおく。
 彼と摂る朝食のメニューは変わり映えがない。ときたまリクエストに応じてメープルシロップをたっぷりとかけたフレンチトーストだったり、すりおろしたにんじんを混ぜ込んだホットケーキだったりはする。けれども彼のわがままがない限り、俺が並べる食事は白米と、玉子焼きと、夕食で残った味噌汁のごくごくシンプルな一汁一菜だ。冷蔵庫から卵を三つ取り出して、コンロに置いたままの味噌汁の鍋を火にかける。長方形のフライパンを引っ張り出して油をひいた。
 キッチンの炊飯器はシュウシュウ湯気をあげている。ぱかりと蓋を開いて、炊きたての白米にしゃもじを立てると、混ぜるたびに甘いような煙いようなにおいがキッチンに充満して鼻を抜けていった。一通りひっくりかえしてから、食卓に並べるまではといったん蓋を閉じる。この作業を終えると漸く、ああ朝がきた、と思うのだ。きっと侯隆さんは、この感覚がわからないと言うのだろうけれども。
 フライパンが温まるまでに、ボウルに落とした卵を混ぜてゆく。適当に調味料を振っていると、「めぐぅ」寝室よりも奥で間延びした侯隆さんの声がした。

「なんすか」
「トイレの紙ない」
「洗面所の棚にあるでしょ、……あんたここ自分ちじゃねえのかよ」

 はあ、なんて心のどこにも見えない返事だけが聞こえて、その後ぺたぺたとフローリングを素足で叩く音がした。「あった」「そりゃあよかった」「うん」それきり彼はなにも言わない。ありがとうのひとつくらい、と思っていたのはどのくらい前だったのだろう。平生やかましい類である侯隆さんが実のところひどい人見知りで口下手であると知ったのは随分と前のことだったような気がする。フライパンがふすふすと煙を上げ始めたから、慌てて火を弱め、卵液を流し込んだ。
 じゅわじゅわと食欲をそそるような音を立てて固まり始める卵をくるくると菜箸で丸めて、また新たに流し込んで、そうして今日もまたひとつ、何千何億回目か、朝食ができあがる。沸騰寸前の味噌汁、コンロの火を消したところで部屋着のスウェットを身に着けた彼が姿を見せた。

「はよ」
「おはようございます」
「恵」
「なんですか」
「たまごやき、チーズがよかった」

 そんなの、もっと早くに言わねえと駄目だろ。カニカマの赤と白が覗く玉子焼きを切り分けながら眉を寄せた。俺の無言の訴えを受けた侯隆さんは食器棚から取り出した汁椀に味噌汁を注ぎながら、「じゃあ、また明日、な」と朗らかに笑う。
 後ろ窓から射す燦々とした朝陽が侯隆さんの髪を黄金色に透かして、後光のようにきらきらと輝いた。