Catch



 陽炎のようなひとだ、だからしっかりと捕まえておかなければならない。

 侯隆さんの白くて骨ばった手首を掴んで、物理的に捕まえている夜深いとき。乱れた着衣もろともベッドに縫い付けられたような彼の、こちらを見つめる黒に酷似した深い紫色の瞳を見て、夕食時、アルコールに任せて言った言葉を思い出した。すると彼はいつもの、ひどく明朗かつ陽気でやかましい声色でもって「なにをゆうてんの」と笑った。俺は決して冗談を言ったつもりはなかった、だからすこしムッとして、彼になにを返すわけでもなく、無言で少し冷たくなったシチューを口に運んだ。
 しっかり捕まえておかなければ、とは言うものの、俺は侯隆さんを捉えられたことなど今の一度もない。……これは俺の主観であるから、彼にしてみれば俺は十分に彼を捕縛しているのかもしれなかった。それゆえの「なにをゆうてんの」であればどれほど幸せなことか。しかしそれはあまりに淡い期待だった。俺と同じようにアルコールの入った彼はほのかに頬を赤くしていて、艶やかに濡れて潤んだ瞳もあわさってそれはそれは扇情的なまでに魅力的で、俺の体温の上昇を手伝うには十分であったけれど、

「お前は俺のことなんか一生かけたってわからん」

 その言葉だけが俺の心を一瞬で凍らせた。穏やかな、とろりと酔いのまわった甘い声でひどく残酷な台詞を吐く。俺は全身氷水に浸されたようになって、心臓までもがピシャリと水を被った。

「恵」
「なんすか」
「おこってる?」
「いえ」

 俺の身体はそれきり冷え切ったままである。いつも鬱陶しがられない程度の頻度で話しかけては彼に構われることをひそかに楽しみにしている俺が、彼の残酷さを腹立たしく思い口数を減らした。平生からマナーの観点で食事時にあまり言葉を発さない侯隆さんは殊更に無口になった。無言で食器を片づけて別々に風呂を済ませ、惰性でベッドになだれ込んだ。それでも夕食での会話から俺の憂鬱を感じていただろう侯隆さんは眉ひとつ動かさずに俺を見ていたし、俺もまた、いつものような行為を進める気にはなれずにいる。侯隆さんはすこしだけ身じろぎをして、また口を開いた。

「俺、なんかしたかな」
「……いえ、」
「一生かけてもわからんってゆうたから?」

 彼が心底不思議そうにこてりと首を傾ぐと、最近ずいぶんと伸びたように感じる前髪が左目に被さった。夜空を溶かし込んだような濡れ羽色の黒い髪から覗く紫の目が俺を見つめる。さすがに鋭いひとだ、あまりに的確な回答をくれるから、俺は素直にはいと頷いた。彼は夕食ぶりに笑った。真っ白な枕に扇状に散らばった絹糸みたいな髪がさらさらとうごめいて、まるで清流のような音が鳴る。

「ガキやん」
「……ガキで何が悪いんですか」
「嫉妬したんやろそれ」
「嫉妬……って、そんなの、誰に」
「俺のことを理解できるひと」

 そうして俺はふたりほど思い浮かべることができた。侯隆さんはどこか誇らしげでもある光をわずかに宿して、潤んだままの目を細めている。子どもを諭す親のような目だった。

「でもな、わからんほうがええことって、あるやろ」

 そう言って侯隆さんはうっすらと微笑む。さながら聖母、なにを信仰するわけでもない俺にとっては、むしろ彼こそが聖母であったかもしれない。はぐらかすことにかけては下手な手品師よりも巧妙な手口でもって大変にうまくやってしまう。俺にしてみれば、侯隆さんは狡猾で卑怯だ。けれども、それが彼にとっては最も正しいことだった。またも丸めこまれてしまった俺はもうなにも言えない。彼の言うとおりにガキかもしれなかった。「ほら、おいで」迎え入れるように両手を広げてそうやさしく囁くから、無益に抵抗など試みるはずもない手首を掴んでいた掌を離した。

「……いいんですか?」
「なにをいまさら」

 やめる気なんてないくせに。言外にそう含めて、へにゃりと眉を下げて笑う。そう、本当に、今更だ。その白い胸心臓の上に手を置いて、何事か祈るように、そっとくちびるへキスをする。「ごめんな」口内に響いた声は食い散らかしてしまった。