鼓動を分け与える



 このコートを着てぎゅうぎゅうに混んだ電車に乗ると、必ず思い出すことがある。
 大学時代から着ているごく普通の黒のピーコートだけれど、自分としては少しだけ頑張って買った金額のコート。確かあの日もすごく寒くて、けれど混雑した満員電車の中では暖房と人の多さのせいですごく蒸し暑くなっていて、家を出たときにしっかりとコートのボタンを閉めてきたことを少し後悔していた。いや、電車に乗る前にコートのボタンだけでも開ければよかったのか。とにかくいくら暑いと思っても、コートのボタンを開けるためにもぞもぞと動くことは憚られるくらいの満員電車だった。
 それをしばらく我慢していると、そこそこ大きな駅に着いて車内の人口密度も少し和らいで。でも、いくら人が減ったとはいえやっぱり車内はまだ少し暑いからコートのボタンを開けようかな。そんな風に考えて少し体勢を変えたのだけれど、そのタイミングが悪かった。

「……っ!」

 電車がカーブを通過して大きく揺れたとき、そんな小さな悲鳴のような声が聞こえた。
 見ると、近くで立っていた女性の髪にまさに外そうとしていた俺のコートのボタンが絡まってしまったのだ。さらに悪いことに、その女性が痛みに驚いて身体を引いた瞬間、それらはもっときつく絡んでしまった。

「あ……すみません……!」

 とりあえずすぐに謝ってなんとかほどこうと試みる。その間も不定期に電車は揺れていて。いっそコートを脱いだほうがいいのではと思うけれど、こんな狭いスペースで無理矢理脱ぐと逆に彼女に痛みを与えてしまうだろう。

「あの……どこで降りるご予定ですか……?」
「わたしですか?」
「はい……ほどくにもなかなか手ごわそうで……」
「あ……そんなに絡まっちゃってますか?」

 彼女の位置からは結び目は見えないのだろう。というより、結び目を見るには髪が引っ張られて痛いはず。だからなおさら俺がほどいてあげないと。そう思うけれど、急がなければという焦りと手元の不安定さ、それから元来そんなに器用じゃない手先が合わさって、正直苦戦している。それでも電車はそんな俺のことなんか知らず順調に走っているようで、まもなく次の駅に着くというアナウンスが流れ始めた。

「あの……」

 かけられた声に視線を動かすと、彼女はバッグから小さなハサミを取り出していた。裁縫用なのだろうか、小さくておもちゃのようなハサミだ。

「すみません、これで絡んでるところだけ切ってもらえますか?」
「え……?」
「わたし、次もう降りなきゃなんです」
「えっ?でも……」

 女性にとって髪は大切なのではなかったか。男の俺でさえ、前髪を少し切りすぎただけで「失敗したな」と少し落ち込むというのに。躊躇して動けないでいると、彼女は少し小さく息を吐き出し、自分でザクッとハサミを入れた。

「えっ……」
「自分のコートに知らない女の髪がくっついてるなんて気持ち悪いと思うけど、たぶんこれで取りやすくなると思うんで。申し訳ないけど、しばらく我慢してください」

 彼女はなんでもないようにそう言って、久しぶりに自由がきいた首を確認するかのようにぐるりと回した。髪を失ったのは彼女の方なのに、俺だけがオロオロとしている。

「いや……でも、髪が……」
「え?」
「そこだけ切っちゃって……」
「あー……どっちにしてもそろそろ切ろうと思ってたし、後で適当に整えるから気にしないでください」
「でも……やっぱり申し訳ないです」
「まあでも、切っちゃいましたからね」

 彼女の苦笑したその顔は、まるで駄々をこねる子どもをあやすようだと思った。だけど、不可抗力の事故とはいえ、俺がもっと器用だったら……。そう思って眉を下げ続ける俺を見かねたのか、彼女はバッグからカードのようなものを取り出した。なんでもスッと出てくるバッグだなあなんてぼんやり見ていると、彼女はそのカードを俺に差し出した。

「えっ……?」
「これ、わたしの名刺です」
「…………?」

 屋烏愛子と真ん中に見やすいフォントで書かれたそれは確かに名刺だった。肩書には“スタイリスト”とある。

「わたし、美容師なんです」
「……はあ、」
「だから、髪ならなんとでもなるから」

 ようやくそこで合点がいった。だから、髪を切ってしまったことをそんなに気にするなと彼女は言いたいのだろう。

 彼女とはそこで別れ、もう会うこともないだろうと思っていた。けれど、それから数日経っても、彼女の髪型を変えさせてしまったのは自分だという罪悪感のようなものがどうしても消えなくて。もやもやとしたまま、あのときもらった彼女の名刺も捨てられないでいた。そこに載っている店名をネットで検索して見つけたお店のブログに登場する彼女は、まだつやつやの長い髪のままで、それがとてもよく似合っていた。だからなおさら申し訳ない気持ちになったのかもしれない。どうしてもこのままじゃ自分の気持ちがおさまらなかった。名刺にある携帯番号に電話すること数回、ようやく電話が通じて彼女と話ができるようになった途端、俺は彼女に会う約束を取り付けていた。

 その数日後、退勤後なら大丈夫という彼女の都合に合わせるかたちで、夜の街で待ち合わせをしていたのだけれど、そこに現れたのは更に髪をバッサリと切った屋烏さんだった。

「山口さん……?」

 あまりの変化に呆然とする俺と、返事がない俺が本当に山口本人なのかと訝しげに声をかける彼女。

「あっ、はい……」
「あ、よかった。違う人に声をかけちゃったかと思いました」
「いや、なんていうか……髪が……」
「ああ、せっかくだったのでバッサリ切ったんです」
「なんか……すみませんでした」
「いえいえ、ほんと、気にしないでください! 結構評判いいんですよ、この髪型」

 そう言って彼女は男の子のように短い襟足のあたりを触り、にっこりと微笑んだ。いや、男の子のようというのはあくまでも長さの話だ。確かに髪の短さは男の子のようなのだけれど、不思議と女性らしい上品さとしなやかさがあって、ボーイッシュというより妙な艶やかさがあった。たぶん、その艶やかさと、ロングヘアとのギャップ、それから不慮の事故をこうも味方につけてしまう彼女に一瞬でやられてしまったのだと今では思う。


「忠、その話好きだよね」

 駅からの帰り道、遮断機が上がって人混みを抜けたとき、愛子さんは楽しそうな顔でわざとらしく少しだけ膨れた。今、俺の隣を歩く彼女は満員電車に偶然乗り合わせた人でも、お礼をするために待ち合わせた美容師さんでもない。俺の恋人というポジションにいてくれている。
 あれから順調に交流を重ね、お互いの気持ちが昂り、お互いを唯一無二だと認めて今の関係に落ち着いた。そんな風に話せばスムーズに事が運んだように思われるかもしれないけれど、実際はもっとたくさん悩んだし、たくさんかっこ悪いところもあった。今日こそ気持ちを伝えようと思っても、実際に彼女を目の前にすると言葉が出てこなくなり、それならば電話やメッセージでとも思ったけれど、そんな無機質なのは嫌だと頑固な自分が嫌がった。それならば、彼女の髪が再び伸びた頃に伝えよう。絶対だ。そう決意を固めて、彼女の髪が肩に届きそうになったころ、絶対に今日こそは伝えるぞと意気込んで待ち合わせ場所に向かった。それなのに、そこにやってきた彼女は、顔を上げたまま呆然と固まってしまった俺に「毛先も痛んできたし、気分転換がてらに」と言ってそのショートボブの輪郭を手でなぞり笑ったのだった。

「あのときわたしが言わなかったら、どうするつもりだったの?」

 そう、情けないことに、結局俺たちの曖昧な関係に最後のトドメを刺したのは彼女だった。
 彼女の髪が伸びたら告白する。今日こそ言うぞ。そう決めていたのに肝心の彼女の髪が短くなっていたあの日、予想外すぎる彼女の変化に驚いて「あ……」だとか「う……」だとか声にならない声ばかり口からこぼれ出る俺に、彼女は「さすがに驚きすぎじゃない?」とケラケラ笑った。そして、ひとしきり笑った後で急に「え、もしかして似合ってない……?こういう髪型好きじゃないとか……?」と不安そうな顔になった。職業柄、彼女の髪型は彼女に似合っていればそれでよくて、俺の好みなんかどうでもいいはずなのに、彼女はそれを気にしてくれるんだ。告白計画が崩れて真っ白になった頭の中で、ぼんやりとそう考えたことは覚えている。

「いや、似合ってる、すごく」
「……そう?山口くん、こういうの、嫌いじゃない?」
「え……?うん、別に嫌いじゃないよ」
「そっか、よかった。やっぱ、せっかくなら山口くんの嫌いな髪型にはしたくないし」
「え……?」
「そりゃ、好きな人にかわいいと思われたいっていう乙女心くらいはわたしにもあるよ」
「え、それって……えっ!?」
「あはは!ねえ、今日の山口くんほんと変だよ? どうしたの?」
「いや、だって、今、」
「なに?」
「す、好きな人、って……」
「ああ、もうどうせバレてるだろうからいいかなって。わたし、山口くんのこと好きだよ。気づいてたでしょう?」


「でも、俺、ほんとうに気づかなかったんだよ」
「なにが?」
「まさか、愛子さんが俺のことを好きでいてくれるなんて」
「そうなの?わたしは、いつになったら言ってくれるんだろうって思ってたけど」
「……それって、愛子さんは俺がずっと好きだったのに気づいてたってこと……?」
「忠がわたしを好きだって自信を持って言えるほどではないけど、まあ、なんとなくは?好きか嫌いかで言ったら好きって思ってくれてるんだろうなあって」

 当時の俺はそんなことには全然気がつかなかった。自分の気持ちがバレバレなことも、彼女がさりげないアピールを続けていてくれたことも。彼女が鋭いのか、俺が鈍いのか。まあ、たぶん、後者だろう。

「そっかあ、じゃあもっと早く言えばよかった。俺からちゃんと」
「ふふふ、まあ、それが忠らしさでもあるんだけどね」
愛子さんの髪が伸びたら、って決めちゃってたからなあ」
「そうなんだ?」
「そう。だから、あの日髪を切った愛子さんを見て、どうしようってすっごい焦った」
「あはは、そしたらもしわたしがずーっとショートでいこうって決めちゃってたら、一生付き合えなかったってことじゃん」
「……だって」
「なあに?」
「そんなの、予想できなかった」

 「まだまだだなあ」と愛子さんは楽しそうに笑う。

「なんでも考えすぎはよくないよ、忠くん」
「偉そう」
「ふふふ」

 得意げにずんずん歩く速度を上げた彼女の後ろ姿を少し眺める。その手に提げられた袋からはネギの頭がひょっこり飛び出していた。その生活感に愛しさがこみ上げる。彼女がこうやってきちんと生活している愛しさ。そこに俺が入ることが自然になっているうれしさ。

「ねえ、やっぱ俺が持つよ」
「そう?ありがと」
「寒いね、早く帰ろ」

 彼女からスーパーの袋を受け取り、空いた手は彼女と重ねて。もうすっかり通い慣れた彼女の家はもうすぐだ。