お昼にはチャーハンをお皿ごと落として全部ぶちまけて、フライパンを洗っていたら跳ね返った水がめちゃくちゃ飛んでTシャツがビチョビチョになって、外に出たら雨は降るし、定期は忘れるし、充電は20%だし、なんかもう、ツイてない日ってとことんツイてない。一日の最後くらいいいことあるかなって思ってたんだけどなあ。
6時に待ち合わせ。駅前で、いつも通り。改札のそばにあるマックの近くにいますってラインを送ったら、ちょっと遅れるって返ってきてからかれこれ三十分経つ。三十分って、デカくないですか?もしも三十分あったなら。ご飯が食べられるし、買い物にも行けるし、シャワー浴びれるし、頑張ればメイクもできちゃうよ。そのくらい貴重なんだよ。わたしの一日における三十分って。
充電が20%なので音楽も聴けません。定期を忘れて切符を買ったのでお財布にお金があんまり入っていません。まあ、世の中にはクレジットカードという最終兵器があるのでどうってことないのですが。でも、定期を忘れなかったら払う必要のなかった無駄な340円のことを考えるとお財布の紐は堅くなってしまうのです。
あと五分待ってなにも進展がなかったら仕方ないのでマックに行こうと決めたすぐ後、手に握っていたスマホの画面がぱっと明るくなる。
「……もしもし」
『ごめんごめんごめん、本当にごめん!あのさ』
「なに、まだ遅れちゃう系?」
『遅れるっていうか、今日駅前集合って忘れてて、あの、大変申し上げにくいのですが、俺、今大学に、着いちゃってて……』
「はあ~!?」
「ごめん」と「うっかりしてて」を交互に早口で言い続けたうっかりさんは、今にも泣きそうな声で「今日、もう、あれだったら、無しにしても……」と続けた。いつもより高い声が同情を誘う。かわいい顔をして困っているのが目に浮かぶ。ええい、なんというずるい男。イケメンはこういう時に強いな。
「山口、もう謝らなくていいから、わたし行くよ大学」
『え、まじで……?』
「うん。研究室の鍵は持ってる?」
『持ってる、持ってる。それは大丈夫』
「じゃあそのまま研究室で待ってて」
これ以上通話を続けると、そろそろ充電がやばい。わたしは大切なことだけサッと伝えて、急いで通話を切る。
忙しい彼のことだ、わたしと進めているグループ研究以外にも、飲みサーじゃない結構ガチな方のバレーサークルの活動や教授の補佐で参加する学会の準備だってある。きっと一日に何件も予定があるのだから、混乱したってしょうがない。基本しっかりしているけれど、たまにこうしてやらかすから、なんかほっとけないんだよなあ。なんとなく年上心をくすぐられるというか、なんというか。
わたしは一浪してるから、歳だけで言ったら一つ違いなんだけど。同じ学部で同級生の山口忠とは所属する研究室が同じになってからというもの、こうして定期的に集まって研究の成果を報告し合っている。最初は授業終わりにお昼ご飯を食べながら少し話す程度だったんだけれども、二人ともどちらかと言えば勉強が好きなタイプだったこともあってか、次第に学校以外の場所で会うことも多くなっていた。最近は山口の家とわたしの家の中間地点にある大きめの駅周辺で会うことが多い、のだけれども。今、彼はわざわざ距離的には遠い大学まで行ってしまったらしい。
山口のせいにするわけではないけど、今日はやっぱりツイてない。研究室でおそらくしょんぼりしながらわたしを待っているであろう山口のことを想像して、小さなため息をつく。
日が落ちて、人もまばらな構内を歩き、通いなれた研究室へ向かった。
「お待たせ~」
「愛子さんっ!!ほんとにごめん!!」
部屋に入るなり椅子をガタリと鳴らして豪快に立ち上がった山口は、頭が机につくんじゃないかというくらい勢いよくわたしに向かって謝罪をした。
「うぉ、いいよ。そんなに謝らないで」
「だって、この前の集まりだって、俺の予定のせいで日時変更したばっかだったし……」
「まあ、そうだけど。でもレポートまとめるのいつもほとんど山口にやってもらってるし」
そうかな、でも、とぶつぶつ言う山口を制し、「さっさと今日の報告!始めちゃおう」と手を叩く。スマホの充電をするためコンセントを探しながらうろうろしていると、ようやく折れたのか山口がノートパソコンを開きながらゆっくりと席についた。
「……今日さ、このあと、なにか予定ある?お詫びになんかさ、ご飯でも……」
「詫びメシ?おごってくれるの?」
「そりゃもちろん。そんなんで許してもらえるかわかんないけど」
「あはは。だから怒ってないって。まあでもおごってくれるのは嬉しい」
それならさっさと勉強終わらせて早くご飯行こうよ、と言うと、山口は嬉しそうに「こら、勉強はちゃんとしなさい」と笑った。ああもう、こいつはこういうところがかわいいんだ。
*
行きつけの居酒屋で、「お疲れ様」とジョッキを傾ける山口を眺める。
「ずっと思ってたんだけど」
「……え、なに?」
「山口、前髪切った?」
「……今?」
短く切りそろえられた前髪を指でなぞりながら、山口は「自分で切ったらちょっと切りすぎちゃって」と恥ずかしがった。直毛の短い前髪はどこか幼さも感じる。
「山口はさ、なんかいちいちかわいいよね」
「えっそうかな。そんなことないと思うけど」
「そうだよ。いつもずるいなあって」
「ずるい?なにそれ」
「わたしよりかわいいから」
かわいくないし、と手で顔を隠した山口が目を細めて笑っている。そういうところ。わざとなのかそうじゃないのかわからない萌え袖から、細い指が覗いている。
山口のそのかわいさを分けろ!と叫びながら疑惑の萌え袖を引っ張っていたら、服が伸びちゃうとやんわり手を離される。そのまま掴まれたわたしの手を山口がまじまじ見つめるので不思議に思っていたら、ちょっと意地悪な顔をして山口は言った。
「愛子さん手荒れやばいけど大丈夫っすか」
「え、わ、見ないで!」
「俺のかわいさを奪おうとする前にこういうとこだよね、あなたは」
「ちょっと恥ずかしいんですけど」
「ハンドクリーム持ってる?」
「……持ってない」
「あはは。俺持ってるけど」
「女子力~!!」
うひひ、と笑った山口がカバンからよく見かける青いチューブを取り出す。「貸してほしい?」「意地悪」「なんとでも言え」
「ていうか塗ってあげようか。せっかくだし」
「なにがせっかくなの?山口酔ってるでしょ」
「酔ってないで―す」
むにゅ、とクリームを押し出した山口が、それをわたしの手に擦り付けてゆっくり延ばしていく。頼んでもないのに。伏せられたまつ毛の密度が濃い。山口がもし女の子だったら、きっと合コンとかでモテモテなんだろうな。この前友達に誘われて嫌々参加した合コンもどきで、なににもせずに帰宅した自分のことを思い出す。
「山口かわいい。わたしが男だったら持ち帰ってた」
「愛子さんこそ酔ってない?」
「山口モテテクの指南書とか出した方がいいよ、きっと売れるよ」
「なんなのそれ」
適度な強さでハンドクリームを塗られるから、なんだかマッサージみたいで気持ちよくなってしまった。今日、なんだかんだ疲れたもんなあ。しっとりと潤った手を山口に預け、少しうとうとしてしまう。
「はい、終わり。……って、愛子さん寝てる?」
「寝てない寝てない。ちょっと気持ちよくて」
「あはは。マッサージ上手いのかな、俺」
「上手いよ。マッサージ屋を開いた方がいい」
「あなたはさっきから俺を何にしたいの」
「合コンでモテるマッサージ師」
はあ?と山口が目を眇めて笑った。少しだけ酔ってふわふわしたテンションのままかわいいかわいいと言い続けるわたしに、いい加減それやめてと眉を下げて困った顔をする。だって、さ。合コンもどきでよくわかんない男から言われた言葉を思い出す。屋烏さんノリ良くて話しやすいけど、女の子っぽくないよね。屋烏さんいたら盛り上がるけど、ムードとかはないよね。なんなんだ。盛り上がってなにが悪い。あ、なんか悲しくなってきた。
「……山口マッサージ師、もっかいマッサージして」
「も~、今日注文多いなあ。なんかあったの」
「なんもないけど大学まで来たので疲れてるっす」
「……今それ出さないでよ、何も言い返せないじゃん」
「うふふ」
苦い顔をしてわたしの手を素直に握り直した山口が、「でも」と口を開いた。
「俺からしたら愛子さんだってかわいいけど」
「……な、なに、突然」
「酔ったらこうやって甘えてくるところとか。いつもちょっと年上面してるのに」
「してないし!」
「そうやってすぐムキになるところもかわいいよね」
「や、やめて、なに?」
「仕返し」
にやり、と笑った山口が指でゆっくり手の甲をなぞった。
「今日俺持ち帰ってくれたらもれなくマッサージサービス付きだけどどうしますか?」
「……山口、そういうこと言う子だったっけ」
「愛子さんにだけだよ」
山口は楽しそうにニヤリと笑っている。ハンドクリームを塗られた手が離されることはない。