定規の上を細い線が寸分の狂いもなく走り、止まる。機械的でまるで無駄のない動作を繰り返すその人間に、ふと興味が湧いたのは単に気だるい休暇明けだからに違いない。そうでもなければバレー・食事・睡眠、その合間合間で申し訳程度に勉学をはさむといった、不本意ながら典型的な青春真っ盛り高校生の俺が、クラスメイトのそれも特定の人物に着目する時間なんてほんの少しもないはずだったのだから。そういうわけで、俺は隣の席に座る女子、杓居鈴子の机を身を乗り出して覗き込んだのだった。
「うっへぇ」
くしゃり、と自分の顔が歪むのがわかる。なんともまあ、間抜けな声が出たものだ。杓居は俺の声を境にピタリと動きを止めて、顔を僅かにこちらに向ける。高そうなシルバーフレームの眼鏡が小さく反射して、長い睫毛の奥にちらつく瞳は静かに澄んでいた。
源氏物語に惚れ込んでウン十年!などと豪語する年配の教師の授業はこだわりを持っているためか、普通の授業とは違い主観入り込みまくりの授業でそれがまた面白いと評判だった。しかし授業という定義に当てはめようとするのならばそれは到底無理なことで、話を聞いている生徒の真剣な様子など見たこともないのが現状だ(その教師としてはなによりもまず興味らしいから良いんだろう)。もちろん俺も例に漏れず、ぽけーっと聞きながら惰眠をむさぼったりすることが多かった。
しかし、杓居のコレはなんだ。俺は瞬きを数回後、改めて杓居の机を覗き込む。夢ではないのだから現実がそう易々と変わるはずもなく。杓居の机の上にあったのは、まさにさっきまで教師の朗読していた部分を夥しい量のラインで引き、たくさんの書き込みがなされた教科書だった(これで俺の最初の言動も納得できるだろう)。よくもまぁこの授業でこんなまともな勉強に置き換えられたものだと。そして好奇心からなのか、はたまた真面目だからなのかと振って湧いた非日常とまでは言わないかもしれないが、少なくとも日常に機微ではあるが変化をもたらす対象に俺は飛びついたのだった。
「好きなのか?」
「……何が?」
「何って、ソレ。源氏物語」
「……人並みに」
嘘を吐くな、嘘を。心の中で溜息を吐く。人並みに好きでそんなに教科書をボロボロに出来るわけないだろうに。教科書から目を離し杓居を伺えば、そこには少しだけ強張り伏目がちにこちらに視線をよこす杓居がいて、まるで悪戯がバレた子どものようだと思った。
*
杓居とのファーストコンタクトは何故だかよく覚えている(その後の彼女に関する記憶はあまりないけれど)。梅雨に入りそうで入らない時期の清々しい暑さの日だった。クラスも程よく慣れ、部活も夏のインターハイに向けて寸暇も惜しまず猛練習していた時期。テスト週間に入ることを忘れていた俺は練習を抜け、教室のロッカーに放置している辞書類を持ち帰ろうと教室へ向かっていた。校舎内の人気もすっかりとなくなりどこかいつもとは違うそこに、俺は僅かだが興奮を覚えた。だから、だろう。ドア一枚を挟んで全く違う雰囲気が流れていることに少しも気付かなかったのだ。もしそのときに戻れるならば、言ってやりたい。空気読めよ!と。しかし場合が場合なだけに、よくやった!とも思えるのが複雑だ。俺が遭遇したのは杓居鈴子が告白されているまさにその場面だった。
ドアを開いた瞬間に聞こえてきたのは抑揚のない声。ごめんなさい。そして次の瞬間には断られたのだと気がついた男が杓居の腕を掴み、詰め寄るといった見苦しい行動が繰り広げられていた。一瞬にして醒めた興奮。気がつけば男の腕を振り払い、杓居との間に身体を滑り込ませていた。
「見苦しいマネすんなよ。男なら潔く身を引けっつーの!」
よく見れば上級生。しかしながらこんな男の風上にも置けない奴をはたして先輩と呼ぶ必要があるだろうか。いや、ない、と頭の中の計算機はすぐに答えを打ち出して、そうするやいなや声に出していた。
男は舌打ちをして暴言を吐きつつも、それでも自分の分の悪さを認識したらしくその後は素直に教室を出て行った。想像したよりも呆気のない展開に少し物足りなさを感じつつも、求める必要はないことを俺も認識し、そこでようやく杓居を振り返った。
杓居はさっきの断りの言葉を述べたときと変わりのない様子でそこにいた。あえて言うとするならば、伏せっていた目が今では躊躇いがちにそれでもまっすぐ俺に向けられていることだろうか。見つめ合うこと数十秒、杓居は小さく零した。
「……ありがとう」
*
入学して随分時は経ったけれども、クラスの中で杓居の存在はそこだけ時が止まってしまったかのように入学した頃と変わらないように思えた。つまるところ杓居は浮いていたのだった。綺麗なんだけど、冷たいんだよね杓居さん。いつだったかクラスの中でも割と世間話をする方である女子がポツリとそう呟いたのを、俺は覚えている。そのときはまるで興味もなく受け流していたが、今思えば初めて杓居鈴子という人間を認識するに至ったあの時の告白を断った時、そして俺に小さくお礼を言った時の表情を思い出せば、違うと首を振ることができる。
杓居に振られた男が去り際に放った言葉は「冷徹人間」だった。そして戸惑いがちに俺を見た杓居の瞳は青白い顔色に合わせるように静かで。ありがとう、と言った瞬間の杓居の瞳は小さくも確かに揺れていたのだった。
杓居は冷たい人間なんかじゃない、ただ感情を表に出すのが下手なだけなんだ。
そのことを忘れていたのは部活中心の生活にもっぱら身を浸していたからに違いない。
今、思い出した。
損な奴、本当に。思わず苦笑を漏らした俺に杓居は少しだけ首を傾げて、そうして視線を宙に彷徨わせた。居心地の悪そうな表情。珍しくもわかり易いそれにじっと目を凝らせば、杓居は耐え切れなくなったのだろう。潜められた声が絶え絶えに聞こえてきた。
「夜久君は……好き……なんでしょう」
「は?なにが?」
「……バレー」
驚いた。杓居は俺がバレーをやっていることを知っていたらしい(話しかけられただけでも驚きだってのに)。そして相変わらずかち合わない視線。なんだかもう愉快だった。
「……人並みに?」
口角が自然と上がるのを感じながら、言葉を洩らす。耳にするやいなや杓居は俺を見て瞳を丸くして、そうして急いで居直った。古典教師の高らかな声、生徒たちの笑い声。その中で、呟いた俺の声は杓居に届いたに違いない。
「まぁ、ほんとはすげー好きだけど」
秋も深まる時期の空の下、教科書の上の歪められたラインがひどく愛しく感じた。